専務理事日記

2026年10月27日

7月 (続々)復活日         人生でもっともつらい1年(3/3)
伊東義員 (商工会事務局)

Itosan

2026年年明け早々、1月20日に予定された造血幹細胞移植のためのPrincess Margaret Hospital入院に向け、入院前検査として、歯科、肺機能、心臓、CTなど、さまざまな検査を受け、1月19日には幹細胞移植用のHickman Lineを再度、装着した。これまでの抗がん剤治療とは違い、今回は体の中に残っている白血病細胞だけでなく、70年近い年月の間、予防接種などで蓄積した自分自身の免疫もできる限り排除したうえで、ドナーから提供された新しい造血幹細胞を受け入れるという治療である。そして、1月20日に入院し、幹細胞移植に向けた検査と薬服用、点滴、投薬を行うこととなった。

1月26日午前、幹細胞移植前の放射線治療を受けた。ドナーとなった次男は朝から約6時間かけて、細胞採取を受けていた。そして午後6時過ぎ、全ての検査が完了し、いよいよ次男から提供された造血幹細胞が、点滴によって私の体内に入った。

しかし、ここからが本当の正念場だった。幹細胞移植直後から38度台、39度台の高熱が続き、血圧も大きく変動した。強い抗がん剤の影響から膀胱を守るため、大量の水分を身体に入れて、ひたすら排尿するという治療も続いた。下痢が始まったときには、バクテリアの検査が行われ、結果が判明するまで、アイソレーションルームに隔離された。さらに心拍数が上がり、不整脈の疑いも出てきた。24時間の心臓モニターを1週間ほど装着し、隣の病院まで移動して心臓エコー検査も受けた。幸い、心臓そのものに大きな異常は見つからなかった。

2月に入ると、今度は口の中が大変なことになった。口内炎、舌の痛み、喉の激痛、吐き気が重なり、食べ物を飲み込むことさえ難しい。激しい痛みのときにはモルヒネ系鎮痛薬を本人の判断で自働ポンプのボタンを押し、随時注入し痛みを和らげ、栄養ドリンクで何とか栄養を補給する。それまで自由に選べた病院食も、この時期にはほとんど食べられなくなった。

そんなとき、家族が持ってきてくれた中華焼きそばが救世主となった。病院では、体力を維持・増進するために、好きなものを外部から持ち込むことが許されていた。病院食の独特な匂いだけで吐き気がするのだが、子どもたちが買ってきてくれた中華焼きそばは食べられた。食べることが治療の一部であることを、このときほど実感したことはない。

そして2月中旬、身体に変化が起き始めた。夜になると骨・関節や筋肉が痛み、眠れない夜が続いた。医師からは、移植された骨髄が血液を作り始めており、特に肘の関節付近での活動が活発になったためと説明された。夜中に看護師から、モルヒネ系の鎮痛薬を処方してもらい、なんとか数時間の睡眠を確保した。

毎朝5時に血液検査が行われる。その結果は1時間後には判明し、主要5項目(白血球、好中球、血小板、赤血球、ヘモグロビン)が、毎日病室内の白板に記入される。

実際、血液の数値は大きく変化した。白血球は0.1から2.6(標準値4.0以上)、好中球は0.1から1.7(標準値2.0以上)、血小板も8から79(標準値 150以上)へと回復。まだまだ数値は低いものの、新しい造血幹細胞が、私の身体の中で血液を作り始めたことが確認された。長かった治療の中で、初めて「身体が自分で回復し始めた」と感じた瞬間だった。

その後、退院の基準となる5項目の数値がすべてクリア―される日が5日間続いたことで、2月27日、移植後32日目、入院してから38日目に退院した。

ただし、退院したからといって、すぐに普通の生活に戻れるわけではない。身体の中には、病原菌などの細菌に対する抗体がまったくない状態のため、衛生管理には特に注意が必要。手洗い、うがい、マスク着用はもとより、トイレも家族と別。食事の前後と日中2時間置きに、口の中を自然洗浄液でゆすぐようにとの指示も出された。

食事制限も厳しいものがある。生野菜は徹底的に洗浄したもののみとされ、ファーストフードなどのハンバーガーに入っている野菜もダメ。乳酸菌なども拒否反応を起こすことがあるため、ヨーグルト、生チーズ、キムチ、漬物、納豆も摂取不可。未加熱、半熟卵などを避け、肉、魚も75度以上の熱で十分に火を通したものに限定。もちろん寿司、刺身などは絶対ダメといった、細かな食事制限があった。

移植された幹細胞が移植先の身体を異物として攻撃する移植片対宿主病GVHD、移植後に起こる様々な合併症が複数の臓器にダメージを与える移植関連多臓器障害などが予想されることから、それを押さえる薬を服用するが、その薬がかなり強いもので毎週の通院時の血液検査の結果を見て、服用量を微調整する必要があった。また、それを服用している間は、車の運転も禁止され、家族以外の人との接触も禁止。通院には、病院の患者サービスが申請してくれた障害者用移動サービスTTC・Wheel-Transを利用することになった。

3月25日、退院後初めて本格的な散歩に出た。最初は30分。それでも久しぶりの外の空気は気持ちがよかった。3月末には近所の公園を歩き、4月には45~50分、5月には55分から1時間へと、少しずつ歩く距離を伸ばしていった。新緑、道沿いの花を見ながら歩くことが、毎日の楽しみになった。

3月末には、採血、点滴、輸血に使われていたHickman Lineも抜去された。4月、5月と外来での検査を続け、血液や臓器の状態も安定。退院直後には18種、20錠の薬を種類に応じて、6時、7時、10時、18時、22時と5回に分けて服用していたが、6月には多臓器への影響を抑える強い薬が終了し、7月にはさらに薬が減った。脱毛していた髪の毛やヒゲ、爪も少しずつ元に戻ってきた。そして7月3日には、移植によって失われた免疫を再び獲得するための予防接種も始まった。通院も2週間に1回から、1か月に1回へと変更された。

気がつけば、家族とドライブに出かけ、ファームに行き、毎日の散歩を楽しみ、そして次男と一緒に釣りまでできるようになった。ただ、その際にも、蚊にさされないようにネットをかぶり、手袋をし、肌を出さないように感染対策重装備となっている。

振り返れば、2025年から2026年にかけての1年間は、人生でもっともつらい1年だった。白血病と診断され、何度も抗がん剤治療を受け、40度を超える熱、ICU、輸血、激しい副作用、そして造血幹細胞移植。何度も「これがいつまで続くのだろう」と思った。

それでも、ここまで来ることができた。

ドナーになってくれた次男をはじめ、家族、友人、そしてSunnybrook Hospital、Princess Margaret Hospitalなどで治療に携わってくださった多くの医師、看護師、スタッフの皆さんに、心から感謝したい。

病気になって初めて気づいたことも多かった。健康であることは決して当たり前ではない。そして、「今日は歩けた」「今日は食べられた」「今日は笑えた」という小さな出来事が、実はとても大きな幸せなのだと思う。家族の支えがあったからこそ、乗り越えられた試練だったと思う。妻、子どもたちにも、何かしてもらった時には、「ありがとう」という言葉が出るようになった。

幹細胞移植後は体内に抗体が無い状態が続き、それを作る予防接種は2年に渡るもの。これからやってくるインフルエンザ、COVIDなどの感染症についても、厳重な注意が必要なため、あと半年は多くの人との接触は控えなければならない。

商工会・補習校の仕事については、入院中もタブレットでできる限り会議に出席し、在宅となった後もできるかぎり行ってきたが、それでも多くの方々にご不便・ご無理をおかけしてしまった。それを受け入れてくださった方々には感謝してもしきれない。

「復活日」と題したこの記録も、ここで一つの区切りを迎える。

新しい幹細胞と、新しい人生をもらったつもりで、これからの毎日を大切に生きていきたい。

この一年の体験を記録に残そうと、ブログを始めた。

それでも生きる カナダで急性骨髄性白血病と闘う 高齢者の記録 突然の白血病発症、高齢者幹細胞移植、カナダという異国での医療環境、そしてカナダの医療制度や患者支援制度などについて、少しでも参考になればと願っている。