専務理事のばたばた日記 商工会事務局 伊東義員

2026年8月31日

7月(続)復活日 人生でもっともつらい1年(2/3)

Itosan

5日間、ICU(集中治療室)に入院し、最初の3日間は、まさに生死をさまよった。特に40度以上の高熱が続き、熱を下げるために身体中を氷詰めにされた後、急激な体温低下で身体がヒートショックを起こし、気絶した。しばらく意識がなかったと後から看護師さんに言われたときには、本当に死にかけたのだと実感した。下痢の元凶であるバクテリアが大暴れする事態となり、12時間以上、下痢が続く状態に。それでも、死ななかった。

担当医師の先生方、24時間世話をしてくれた看護師の方々、検査のたびに検査室まで移動してくれた看護補助の方々、そしてさまざまな形で命を救ってくださった方々に、心よりお礼を申し上げたい。

ICUから一般治療病棟に戻された後、体調に大きな変化が起きた。依然として38度前後の熱は続いていたが、加えて全身に発疹が現れ、痒みに悩まされた。そこで、定期的にステロイドの塗り薬を全身につけてもらうことになった。髪の毛も一斉に抜け、とにかく頭が寒い。枕やベッドについた髪の毛を取るため、粘着テープ(コロコロ)で髪の毛を取る日々となった。

食事にも変化があった。高熱が続いたことで口腔内の味覚細胞が破壊されたようで、味がおかしくなり、水さえ不味いと感じる状態に。しかし、とにかく体力をつけなくてはならず、血液再生に必要なプロテインと栄養を取るように言われ、食事の量もかなり多くなった。ただ、味覚も変わってしまっているため、実際にはそれほど食べられない。そこで出されたのが、プロテインを多く含む栄養ドリンク。味はバニラ、ストロベリー、チョコレートと、普通のミルクシェイクのような感じだが、とにかく不味い。飲むと吐きそうになる。それでも、がんばって飲むことにした。

その後の治療では、複数のホースをつなげるように、それまで装着していたHickman Lineというカテーテルから、PICC Lineというカテーテルに変更された。日中は、点滴、輸血、投薬がPICC Lineから行われ、酸素吸入器もつながれ、ほぼ一日中ベッドにいる状態である。

一番困るのはトイレだった。点滴で大量の水分が身体に注入されるため、トイレの頻度も多くなる。しかし、部屋にあるトイレまで移動することができず、その都度、看護師さんを呼ぶのも申し訳ない。そこで、代わりに耐水性の紙素材でできた尿瓶をいくつもベッド脇に備えてもらった。

38度前後の熱が続き、また身体中を氷詰めにされる事態も起きたが、それでも徐々に安定し、一般病棟に戻って1週間後には再び骨髄サンプルを採取。結果は、癌化しているとの診断だった。そこで、それまで使っていた抗がん剤を変更し、体内注入と服用の二重治療となる。同時に、運動するように言われ、点滴ポールを持ちながら病棟内を散歩することを始めた。数日後、熱も下痢も安定してきたことから、当初予定していた28日間の入院から1週間前倒しで退院となり、その後は通院での抗がん剤治療となった。

服用する抗がん剤は、入院中に服用した1回目の分しか州政府の補助が出ないということで、病院と癌治療支援NPOがいろいろと調整してくれた。月に5,000ドルから10,000ドルかかる薬だそうで、大変大きな負担となる。そのため、州政府、保険会社、支援団体で調整した結果、当面向こう6か月は保険会社がカバーしてくれることになった。もし保険会社がカバーできないとなった場合には、癌治療支援NPOが調整に入り、カバーできるよう申請するとも言われており、とても頼もしく感じた。

退院後、1週間の自宅静養を経て、抗がん剤治療の第一サイクルが始まった。7回連続お腹に抗がん剤を注入する治療で、毎日病院に通う。入院中に急激に体重が落ちたとはいえ、膨らんだ風船がしぼんだようなもので、お腹にはまだまだタプタプの脂肪がたくさんある。看護師さんは、その脂肪をつまみ、場所を選んで注射器で抗がん剤を打つ。連日なので、場所を毎回変える必要があり、今日は左、明日は右と場所探しになる。なぜか左側のときはあまり痛みが残らないが、右側のときはしばらく痛みが続く。

毎回、血液検査も行い、異常値が出ている場合には、輸血、投薬、薬の服用が追加される。血液検査の結果は、病院の患者ポータルから即時に見ることができる。過去データとの推移や診療カルテ、投薬履歴もすべて見ることができ、加えて病院での検査結果だけでなく、オンタリオ州内で行った検査結果も表示される。

自宅療養、通院治療になってから、毎日の散歩を開始した。我が家は徒歩圏内に小学校、中学校、高校と学校が多くあり、時間によっては子どもたちと行き交うことも多い。感染症にならないよう、家族以外との接触は厳禁となっているため、学校が始まった後に散歩に出る。最初は10分も歩くと疲れてしまったが、日を追うごとに距離も時間も伸びていった。

通院での抗がん剤治療第一サイクルが終わり、再度、骨髄を採取した。その頃から、足、特にふくらはぎが異常に冷える症状が出るようになった。1週間置いて、抗がん剤治療第二サイクルが開始。その間、骨髄移植ドナーを探すことになった。

骨髄ドナーの適合率は、父母、兄弟が最大90~100%、子どもが最大50%だそうで、自分の場合、父母はすでに他界しており、兄弟でいるのは3歳上の兄、そして子どもたち3人だった。骨髄移植を担当するPrincess Margaret Hospitalの担当の方が、日本にいる兄と長男に連絡を取ってくださり、適合検査を行うよう指示してくださった。カナダポストのストライキでカナダへの到着が遅れるという事態もあったが、それでもなんとか間に合った。カナダにいる子ども二人も適合検査を受け、最終的には一番若い息子がドナーとして決定した。

抗がん剤治療第二サイクルが終わり、次のステップを検討する段階となった。Sunnybrook Hospitalでの治療と並行して、骨髄移植を担当するPrincess Margaret Hospitalへの通院も始まった。

12月初旬、骨髄移植に向けてのコンサルテーションを受けた。骨髄移植を受けるには、いくつかの壁があることが丁寧に説明された。一つは、患者の体力と年齢。これまでの症例では、60歳以上の高齢者への骨髄移植は推奨されていなかったそうだ。移植前後の治療や拒否反応、薬の副作用に体力的に耐えられないことが多いというのが理由である。しかし、近年は成功事例も多くなっているとのことだった。

2つ目は、ドナーの適合性。適合率90~100%がもっとも成功率が高いことは当然として、適合率50%での成功率も気になった。しかし、これも近年、50%の適合率での成功率が急激に上がっているとの説明で安心した。こうした説明を受けても、半数くらいの患者さんは、年齢、体力、移植前の家族への負担、移植後の長期静養・通院の負担、費用などの面から、骨髄移植を受けない選択をすることがあるそうだ。ただ、骨髄移植をしない場合には、数年後に再発するケースが多く、その場合には症状がさらに悪化していることがほとんどとの説明も受けた。

自分は当時68歳であり、年齢の面では少し不安になったが、体力には自信があった。医師グループの説明を聞いたうえで、骨髄移植を行わないという選択はまったくなかった。家族とも相談し、骨髄移植を受けることを伝え、その準備に入った。抗がん剤治療を受けていたSunnybrook Hospitalにもその旨を連絡してもらい、年内で抗がん剤治療第三サイクルを終えることになった。そして、ギリギリの12月31日に、最後の抗がん剤腹部注入を終えた。(続く)