とりりあむ特別企画

日系カナダ人ーーいま聞いておきたいこと

 Jan Nobutoさんのストーリー(後半)

記事前半とJan Nobutoさん紹介はこちらhttp://www.torontoshokokai.org/trillium/202005/Nikkei_Canadian_0520.html


取材:善積 祐希子
記事作成:三藤 あゆみ

Yukiko(以下Y): お正月のほかに家庭内の伝統はありましたか?

Jan (以下J): 日本の伝統?母はよくニホンショク(日本食)を作りました。いつも「二日に一度はニホンショクね」と言っていたのを憶えています。私たちは ニホンショニホンショクとヨウショクを食べて育ちました。私たちの食べていたニホンショクはずいぶん西洋化されたものでしたけど。

今もっ と日本料理の勉強をして、自分の子どもたちや皆に伝統的な日本の食べ物を紹介するようにしています。トロントにもたくさん日本レストランができて、最近は 何でもありますし、本物のニホンショクが食べられるようになりましたね。うちでは子どもたちにお饅頭や寿司の作り方を教えたりします。色々な種類の漬物な ども、一般的で手軽なものからですね。

夫も日系人なので私の子どもたちは(人種的に)日本人ですが、三世で私のように日系どうしで結婚し たのは珍しいです。うちの娘と息子は非日系人と結婚したので、彼らの子どもたちは半分日本人です。なのでよけいに日本人である部分をしっかりと自覚し、そ れがどういう意味を持つのか理解しようとしています。

私のきょうだいの中では私を含め二人が日系人と結婚し、他は非日系人と結婚しました。かなりミックスしたファミリーなんです。今も家族皆が自分たちのルーツを、自分は誰なのか知りたくて追求し続けています。

私の息子や甥たちは日本に行ってきました。息子は一年間、甥の一人は五年間日本で過ごしました。もう一人の甥は最近カナダへ帰ってきたばかりですが、十三年も日本に住んでいたんです。

Y: 13年もですか。

J: そうです。でも、また自分の家族と過ごしたいというのもありカナダへ帰国しました。彼は日本にいる間、日本にいるはずの私たちの親戚について色々調べ、ついに情報を得ました。

Y: 甥っ子さんは、日本で家族や親せきの誰かに会えましたか?

J: 会いました。連絡が途絶えてしまっていたので、本当によかったです。

私 の両親が子どもの頃、学校が終わったら日 本語学校へ通っていたそうですが、両親とも家では日本語を話さなかったそうです。一世である祖父母は日本語が母国語で、英語は少し話せただけですが、自分 の子どもたちは日本語よりも英語をきちんと話すよう力を入れていました。特に父方の祖母は自分の子どもたちがカナダ人のコミュニティに溶け込み、プロ フェッショナルなキャリアを持つことを強く望んでいました。子どもたちにはカナダ社会で成功し、豊かな暮らしをしてほしかったからです。

そ のまま私たちの代も家庭で話す言葉は英語 となり、祖父母とコミュニケーションをとるのは難しかったです。日本の親戚と連絡するとなるともっと大変で、連絡は途絶えてしまいました。一人だけ日本語 で手紙を書くことができる叔母がいたのですが、彼女が書くことができなくなってしまってからそれっきりです。

甥は自から日本にいる親戚を探したいと言い出し、探し当てました。私のまた従兄妹にあたる人たちです。私と同年代で、たいへん興味深いです。そういうわけで、再び繋がることができました。

Y: 子どもの頃、誰とも日本語を話さなかったのですか?

J: 話さなかったですね。

Y: 日系人の子どもが学校に数人いたとおっしゃっていましたが、他の日系人の子は日本語を話していましたか?

J:  誰も日本語を話さなかったと思います。いま日系文化会館に行って三世に聞いたら、おそらくほとんどが「親に日本語学校へ行かされた」と言うでしょうけど、実際話せる人は少ないです。学校で習っても家では使わなかったし練習の場がないので身につかなかったんですね。

話せるとしたら家庭では日本語が話されていたという三世だけ。たいていお爺ちゃんお婆ちゃんと一緒に住んでいて、親と祖父母が日本語で会話しているのを小さい頃から聞いて育った人たち。ほとんどの三世は日本語は話せないです。

Y: 日系人であるということに関連し、記憶に残る子どもの頃の経験はありますか?学校でクラスメートがどのように接してきたかなど、よろしければ話していただけますか

J:  公立学校に通っていたときは人種差別のようなものはあ まり経験しませんでした。少しはありましたけど、どこへ行っても道を歩いていて何か叫んできたりする人はいますから。でも、たいていは「チャイニーズ」と 言ってきたり、バカにするような感じで中国語の音を真似るとか。そういう時は、彼らの顔をじっと見て「私はチャイニーズではないです」と言うだけでした ね。

わ りと小さいうちに、クラスの中にも親が人種差別をする人がいるのを知りました。学校が始まって新しい友人ができ、仲の良い子たちといつも一緒に過ごし、誕 生日にはパーティーを開き友達みんなを招待するのですが、一人だけ私の誕生会には一度も来てくれない子がいました。ちょっと理由があって行けないの、とそ の子は言っていました。

あ る時、彼女も誕生会を開いたのですが、クラスメート全員を招待したのに私だけ呼ばれなかったんです。なぜ私は招待されなかったのか聞いてみると、「うちの お母さんが日本人は家に入れられないっていうから」。私はまだナイーブで「どうして?」と聞くと、「分からない。でも、あなたを家に入れたくないって…」 と。小さい頃にそんなことがあったのを憶えていますが、それぐらいですね。

それでも学校ではその子と遊んだり、一緒に色々なことをしました。まあ、親がその子に人種差別的なことを言っていたということですね。

姉 が経験したことでは、高校時代に初めて彼ができてお付き合いしていたのに、ある日彼が訪ねてきて突然「もうデートできないんだ」と。姉はショックを受けと ても悲しみました。結局、彼の母親が息子を日本人の女の子と結婚させたくなかったので、別れなさいと言ったのが原因でした。

我が家は、父が意識の高い人でしたから、そういう問題についてよく話し合ったり、私たちにも話す機会を与えてくました。ニュースをよく読まされ自分の考を話すよう言われました。

それで、子どもの頃からすでに、人種差別する人や偏見を持つ人々が存在し、自分たちだけの狭い知識や情報や経験を基準に物事を信じ込んでいたり決めつける人がいる、それが間違った情報だとしても…というようなことを理解し始めていました。

そ れもあって、私が姉のために怒ったり、姉も怒るようなことはしませんでした。この世界にはそういう考え方の人もいて、そんな行動をする人もいるんだという ことに気づかされました。でもそれによって、私たちが消極的になったり何かを諦めようと思ったことは全くありませんでした。

Y: 1950年代から60年代頃のことですね。

J:  60年代ですね。私が生まれたのが終戦後、1952年ですから。いろいろあっても、姉も私も、積極的に学校での活動をしていました。二人ともイヤーブッ ク(年鑑アルバム)の編集をしたり、姉は卒業式で卒業生総代をつとめましたし、私は卒業の際にリーダーシップ賞を受賞しました。機会があり、自分の力があ れば逃さず何でもやってみようとういのが父の哲学でした。

壁 があると考えず、それを超越しているように、と。そして子供の頃からプロフェッショナルなキャリアを持つ大人になる んだと自然に思っていました。親たちは困難や差別、制約を乗り越え克服してきた。そのおかげで私たちはとてもよい人生を送れたのです。これは、日系カナダ 人にとって、特に珍しい話ではありません。

一世はカナダへ渡ってきてゼロから始めなければならなかった。知的な専門職に就くことはできな かったけれど、漁業や製材や農業などそれぞれの分野で努力して素晴らしい結果を出し、ビジネスに成功しました。白人のビジネスコミュニティはそんな日系人 の成功を妬み、生活をぶち壊されたというような感情を持ち始めたんですね。

一部は、勤勉な人々を敵に回すべきではないという考えの人もい ましたが、政治・経済面で日系人について好ましくない情報がたくさん出回りました。「賃金を安くすると、やつらはもっと働くようになる」と書いたビジネス マンがいて、だから白人が失業し生活できなくなってしまうと言い始めた。それが白人ビジネスコミュニティが日系カナダ人を排除するきっかけとなったわけで す。

長 い目で見れば、それは自分たちの利益にはならなかった。日系のビジネスは白人を多く雇っていました。日本から来た漁師たちが成功して缶詰工場を作り、漁業 が発展してきて地元民の働き口も増えたのに、ビジネス閉鎖に追いやられたので皆が職を失ってしまったんです。地元の人は自分たちでビジネスを始められるよ うな力も資格もなく、結果的に失業者が増えただけでした。

一 世は、強制移動でまたゼロから始めなけれ ばならなかった。必要最低限の荷物だけ持って追い出されどうやって生活したのか、当時の遺物を見るとたいへん興味ぶかいものがあります。女性は、その地で 手に入る食材を使って工夫し日本食を作り、畑で野菜を作ったり。そうやってやっと生活を築き上げた頃、戦争が終わって、「日本へ帰るか、東部へ移動するか 選べ」と言われた。また根こそぎ取り上げられ、やり直しです。

一世は一番苦労しました。二世は、戦時の苦境でもベストを尽くした一世のス ピリットを受け継ぎました。そしてよりよい人生を手にしました。皆それぞれの道で成功しました。力をもらうストーリー、歴史があります。悲劇が起きてもこ れだけのことができるんだと、やる気がもらえる。コビー・コバヤシがいい例ですね。知っていますか?

Y: 日系文化会館コバヤシホールのコバヤシさんですか?

J: そうです。一代で億万長者になって、文化会館に何百万ドルもの寄付をしました。一世と二世の多くが、仕事で大成功しているんですよ。

J: カナディアンタイヤのフレッド・ササキさんも二世ですね。

J:  そうですね。戦後BC州に戻れなかったのに、多くの二世が成功したのは驚きです。日系人は終戦後もBC州に帰らせてもらえなかったし、ほとんどの大学が 日系カナダ人を受け入れてくれなかったんです。マニトバやオシャワの大学は入れましたが、トロント大学はずいぶん長い間受け入れませんでした。

マ ニトバ大学へ行ったグループの中には、 Avio Aeroのエンジニアとなり、後にカナダの原子力発電で様々なシステムを創った人がいます。整形外科の分野をリードする医者もいました、科学者で医者だっ たWomen’s college hospitalのアイリーン・ウチダ、それからエンジニアリングサイエンス博士のフレッド・ツナヒロ。皆夢をあきらめず前進して成功しました。

2万1千人~2万5千人が強制移動の影響を受け、約三千人が日本へ帰りました。BC州内陸にそのまま残った人もいますし、東部へ来た人もいます。その中で成功した人は多いですね。

Y: 二世の女性については?主婦が多かったですか?

J:  最終的にはほとんどが主婦だったと思います。日系人が移動してきた時、最初に快く迎え入れてくれたのはユダヤ人コミュニティでした。トロン トに来たものの、日系人は住む場所を探すも仕事も見つけるのも非常に苦労しました。ところが、自分たちがホロコーストで大変な目にあってきたユダヤ人のコ ミュニティには、助けが必要な人には誰であっても手を差し伸べるべきという考え方が浸透していました。それで、トロントに来た日系人に部屋を貸したり、主 に縫製業の仕事をくれたんですね。

縫製の仕事をする女性たちには、ミシンを持っている人なら家で仕事ができるシステムもありました。衣服 の一部分を専門に縫うので「ピースワーク」と呼ばれていました。仕上がったらまとめて工場へ持っていき、また次の仕事をもらって帰るという内職のおのおか げで、女性は子供ができても、家で仕事をしながら子育てができ、長く仕事を続ける人が多かったです。

私の母の場合、父がビジネスをしていましたから一緒に経営をしていました。簿記や会計業務のほかにビジネスマネジメントを担っていました。でも、私たち子どものためにできるだけ家にいたいと思っていたそうです。

二世にはプロフェッショナルな職に就いた女性もいました。歯科医や眼科医が数人、医師、それから会計士などもいました。弁護士や薬剤師はいなかったと思いますが。でも女性の多くはは家にいて家族の世話をしていたと思います。

Y: ジャンさんのお母さんは家で仕事をしていらしたんですね。

J: 家で仕事をし、子育てをしていました。造園ビジネスをしていたうちの両親にとっては、ちょうど良かった。冬の期間、ビジネスがスローな時は家で子どもの世話をし、仕事が忙しい時はそちらを手伝っていました。

私たちは、良い人生を送ってきました。そんなにお金持ちではありませんが、豊かな人生です。両親が私たちが必要なものを全て与えてくれて、様々な機会を作ってくれたおかげですね。
(終)








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