今聞いておきたいこと

 日系カナダ人インタビュー シリーズ


日系カナディアンの歴史


カナダには250以上の民族または国外にルーツを持つ人々が暮らしています。最近の調べでは(2016年センサス)英系、仏系、カナダ先住民のほかアイルランド、中国、ドイツ、イタリア、インド、ウクライナ、オランダ、ポーランド、フィリピン系が人口の上位を占めています。

日本にルーツを持つカナダ人や日本人移住者の数は約109,740人。百数十万人にものぼる他のアジア系と比べると人口は少ないですが、『とりりあむ』読者の皆さんの多くは、ビジネスやコミュニティイベント、子どもの学校を通じて出会いや交流の機会があると思います。また、メディア、スポーツ、アート、医療、学界、政治など様々な分野で活躍する日系カナダ人の名を耳にするはずです。

カナダの日系人には長い歴史があります。世界大戦前そして戦中・戦後、日系人は過酷な労働や差別、強制収容所での抑留を乗り越えてきました。日系人抑留から、あと二年で80周年となります。2020年度『とりりあむ』では、当時を知る親や親戚を持つ日系三世(主に1950年から1960年代に生まれた世代)や、高齢となった二世の方から「今聞いておきたいこと」をうかがうインタビューシリーズを企画しました。

今月号では、インタビューシリーズ掲載の前書きに代えて、「日系カナダ人の歴史」を短くまとめておきます。

1887年に横浜からバンクーバーへ渡るバンクーバー太平洋航路が就航してから1920 年代にかけて多くの日本人がカナダ西海岸ブリティッシュ・コロンビア州(BC州)に移り住みました。カナダの「日系一世」は、戦前の日本からの移民の第一世代のことです。その子供たち、そして孫の世代は二世、三世…と言います。また、1967年以降、日本から移住してきた人は「新移住者」または、"Ijusha"と呼ばれています。




Nakano Family Pictured in Front of Their House, Hammond BC. 1914.
1914
BC州ハモンド。ナカノ家の家族写真、自宅の前にて。
JCCC Original Photographic Collection. Japanese Canadian Cultural Centre. 2001.11.47.

 
Powell Street Storefront Following Riot, Vancouver BC. 1907. 
1907
BC州バンクーバー。暴動後のパウエル ストリートの商店。
JCCC Original Photographic Collection. Japanese Canadian Cultural Centre. 2001.4.30.

1941127日、日本がハワイの真珠湾を攻撃、アメリカが日本に対し宣戦布告すると、カナダもそれに続きます。カナダでは、BC州沿岸周辺に住む日系人が日本軍のスパイだという噂がたち、カナダ軍や保安対策を妨害するのではという不安が高まります。

Woman and Four Small Children in Tarpaper House, Lemon Creek, BC. 1943.
1943
BC州レモンクリーク。

タールを染込ませた紙等で作られた収容所の小屋に住む女性と小さい子供たち。
 JCCC Original Photographic Collection. Japanese Canadian Cultural Centre. 2001.9.8.

RCMP(王立カナダ国家警察)の専門家が「日系カナダ人が保安や防衛を脅かすとは考えられない」としたにもかかわらず、カナダ政府は一般市民の人種差別に呼応し、日本をルーツとする人々は全てBC州沿岸から100マイル(160km)以内の「防衛地域」から立ち退くよう命令しました。

多くの日系人がすでにカナダ国籍を持ち、半数はカナダ生まれであるにもかかわらず約2万2000人が強制退去令の影響を受けます。男女、子供、コミュニティの住民皆が、突然の告知からわずか2日以内に準備時間もろくに与えられず、自宅から強制退去させられました。

持って行ける荷物は厳しく制限され、家、車、ボートなどの不動産や財産の没収に加え、家に代々伝わる家宝や家財などの大切な所持品も置いていくよう命じられました。それらは後に、持ち主の同意を得ることもなく政府が売却処分してしまいました。

多くの人が、BC州内陸に突貫工事で作られた簡素なキャンプ(収容所)へ強制収容されました。寒冷地でありながら断熱材も使っていない狭い小屋に大人数が押し込まれ、抑留生活が始まります。18歳から45歳の男性は道路建設などの労働を強いられ、家族から引き離されました。これに従わない者は戦争捕虜収容所行となりました。

一部の人々は家族が離れ離れにならないよう、プレーリー地域のシュガービーツ(砂糖大根)農園に移り、家族皆で労働する道を選びました。長時間労働に過酷な条件下で、ほとんどタダ働きのようなものでした。さらに東の州へと移動した人もいました。

1945年、第二次世界大戦終戦。しかし、日系カナダ人が保安を脅かす証拠はどこにも無いというのに日系人が西海岸へ戻ることは許されませんでした。それどころか、カナダ政府に協力する意思があるなら、強制的な「分散政策」に従いロッキー山脈以東へ引っ越すか、日本へ行くよう命されます。それが、戦後カナダに日本人街が作られなかった主な理由でもあります。

当初、半数以上である約4000人が日本へ旅立ちました。残る人々は、ゼロから再び生きる道を探さなければなりませんでした。日系人が西海岸へ戻ることが許可され、他のカナダ市民と同様の権利、投票権などを得たのは1949年のことです。

1980年代、日系カナダ人コミュニティは、カナダ政府に対し、「政府が1942年~1949年にかけて日系カナダ人に対して行ったことを謝罪せよ」というロビー活動を行うための組織を結成しました。この謝罪・補償を得るための闘いを「リドレス運動」といいます。

1988年9月22日、カナダ連邦政府は、National Association of Japanese Canadians (NAJC)との合意書に署名しました。連邦政府は、1940年代に日系人に対して行ったことを不当と正式に認めたのです。

強制分散政策や所有物取り上げの被害にあった生存者全てに各2万1000ドルを支払い、また、1200万カナダドルをNAJCへコミュニティ基金として支払いました。コミュニティ基金は、カルチャーセンターや日系シニアホームの建設、カナダ全国における日系文化プロジェクトや芸術をサポートするために使用されました。

(とりりあむ編集委員 三藤あゆみ)





戻る