リレー随筆


海外ノンフィクションを日本に紹介
フリーランス翻訳者 新田 享子


翻訳、文筆業を営んでいます。長らくシリコンバレーに住んでいたので、今もあちらの半導体企業などから仕事を請け負いますが、トロントに移り住んだのを機に出版翻訳にも携わるようになりました。これは、本や専門誌の翻訳のことで、文学作品の翻訳は文芸翻訳と業界では区別されています。

もちろん、出版翻訳でも著者や登場人物の仮面をかぶって訳します。ネルソン・マンデラ、特殊部隊の隊員、倒産寸前の会社の社長、文明崩壊や日中関係を解説する大学教授などになりきるのです。個人的に、翻訳は演技に似ていると思っています。仕事にのってくると、著者の極意がこちらに憑依し、イタコ状態になるのです。

「漆黒の夜空をヘリコプターが飛行する。乗っているのはアメリカ軍の特殊部隊だ。これからアフガニスタンの山間部にあるタリバンのアジトに奇襲をかけることになっている。暗闇の中にローブが降ろされた。これをつたって地表に降りるのだ。隊長がカウントダウンを始める」

ここで原文は「Five…」。これを日本語に直訳すると「五…」

アレレ? 何かおかしい。あ、そうかそうか! と独り言をつぶやいて、「五秒前!」と書き換える。臨場感を出さないと!

実はこの特殊部隊、全員が女性なのです。ネイビー・シールズの女性版です。いざとなれば人を殺す、そんな訓練を受けている強者の彼女たちが日本語で話すとしたらどんな口調で話すのだろう。そこで私は腕を組む…。

アメリカ人の女性兵士がアフガニスタンの山間部にいきなり乗り込んでも言葉は通じません。なんとこの部隊には女性通訳も同行します。命がけで通訳する彼女たちの年収は約2千万円。民間企業から派遣されているので語学兵でもなく、軍事訓練は受けていません。 同業者の私は「これって高いのか安いのか」と悶々とする気持ちを禁じ得ず、手を休める…。

これは『アシュリーの戦争』という本を訳したときの経験談ですが、だいたいこんな感じで1冊の本を訳します。約300ページを2カ月ぐらいで。

仕事が舞い込むと、ゆったりとした服に着替え、髪を束ね、猫を部屋から追い出し、ドアを閉めます。そして仕上がるまで『鶴の恩返し』のおつうのように、カチャカチャ、キーボードを叩き続けます。2カ月後、憔悴しきってフラフラしながら部屋を出るのですが、なぜかやせ細ってはいません。妙にふっくらとしているのです…夜食のせいでしょうか。

出版翻訳にはもう1つ、別の作業があります。文芸/翻訳エージェントは海外の話題本に目を光らせていて、翻訳権を買い取る前に、私のような者のところへ原書を持ってきます。私はそれを読み、10ページ程度のレポートを作成します。読み書き両方の作業で1週間ちょっと。速読・速筆の習慣をつけておかないと泣きを見ます。

依頼するほうも気遣って、私が喜びそうなものを回してくれますし、まだ原書が世の中に出ていないときに読ませてもらえることもあるのですが。あと、訳者として担当した書籍をメディアに紹介することもあります。

ちなみに翻訳の腕を磨くコツは「並行読書」です。同じ題材を扱ったニュース記事を英日の両方で拾い読みします。こうすると、いちいち辞書を引かなくても済みます。キーワードだけを並行させ覚えるだけでもいい。映画やドラマを見るときは字幕を表示させ、口語表現やスラングをチェックします。高尚な文章ばかり訳すわけではないのです。

「何、どういう意味? どうしてこの人はこんな言葉を選んで、こんな言い方をするの?」と常に好奇心を持ち、相手が伝えたいことに耳を傾ける、それがこの仕事の一番面白いところです。


Kyoko Nittaのウェブサイト
https://kyokonitta.com/







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