リレー随筆


母を想う
伊藤 さゆみ (トロント在中)



「小学校に入った頃、貰いっ子、貰いっ子ってイジメられてね、悲しかったよ。本当の親じゃないと分かって、寂しかった」昨年母を訪れた時、薄れた記憶をたぐるようにゆっくり淡々と話してくれた。

ここ数年、帰省する度に老人ホームに入居している母から昔話を聞き出しているのだが、これは初耳だ。思えば、母が若い時のことを聞かせてくれたことは余りない。私達は親の話を聞かなかったし、母も自ら多くを語らない人だった。ただ自分ができなかった分、娘3人に自分の好きな人生を送れるように育ててくれた。

母は2歳の時、養女として遠い親戚筋の常滑の農家へ貰われて行った。小学校では勉強がよくできたので、教師に女学校への進学を勧められたものの、「女に学問はいらない」と行かせてもらえなかったと言う。

嫁に欲しいと請われたこともあったそうだが、既に婿を迎える段取りができていた。養父母に仕え、亭主関白の夫に従い、自分の自由になる時間もなかったと思う。それが母の意図するところだったとは思わないが、私達は親にあまり干渉されずに育った。

1962年、農作業に明け暮れていた生活が一転。父が名古屋で自動車修理工場を始め、母は住み込みの従業員の世話や事務をするため、39歳で運転免許を取り名古屋へ通い始めたのだ。慣れない土地で新しい仕事をこなしていた母には辛いことが多かったに違いない。

1年後には一家でアパートで暮らすようになったが、あの時期から数年、両親は険悪な仲だった。苦労をすることに耐えて来た母は芯が強く、どんな状況でも私達を見守り、私達の判断をサポートしてくれた。

私がアメリカへ留学をすると言った時、父は「お前の育て方が悪い」と母を責めたが、「悔いのないように勉強して来なさい」と母は羽田まで見送ってくれた。

4年間の留学とインターンシップを終え、将来の進路を決めるため休暇を取って一時帰国した折、母は私のために東京に就職先を見つけてくれていた。もう海外へは行かないだろうと思ったに違いない。しかし、2年後に私はカナダへ移住する決意を告げたのだ、向こうで結婚して永住するということを。
 
あれから35年の歳月が流れ、母は93歳になった。いつも自分より人のため、家族のために人生を送って来たような母だけれど、そんな母の人生を自身の語りで聞いておきたいと思っている。



この号の目次へ戻る   「リレー随筆」記事一覧ページへ