リレー随筆



母と父と飛行機と
事業用操縦士(コマーシャル パイロット)伊達 のり子


1. はじめに
商社の方が読み終わった日本経済新聞を、知り合いの方が回して下さるお仲間に入れていただいてから読んだものに、ふと目に留まった記事がありました。2015年11月3日付けの文化のページに記載された“山口・空の歴史探索飛行”。古谷眞之助さんのお話です。

古谷さんは、アメリカ、オーストラリアでの飛行経験もあるグライダーパイロットなのです。「年表 山口県航空史1910-2010」を出版されたとのことで、是非手に取って読んでみたいとグーグルで検索、山口県にお住いの氏と連絡がとれてから約10日ほどで、待ちに待った本が手許に届きました。

手触りの良いカバーに沢山の歴史的飛行機の写真、100年間の出来事がつぶさに記載されていて、これは何という力作なのだろうと感心しながら読みました。へぇー、1948年にはマリリン・モンローさんとジョー・デイマジオさんが岩国に到着しているんだ!と、この本で初めて知りました。

歴史を振り返ると、自分が今こうしてパイロットとして飛べているのも、道を切り拓いてくれ た沢山の方々の経験や、そして不幸な事故などがあって、改善に改善を重ねた結果、今の安全があるのだと、改めて感謝の気持ちが生まれます。


私はカナダのCommercial Pilotとして、オイル会社のパイプラインパトロールを行っています。空高く飛ぶ大きなジェットではなく、セスナ172という4人乗りの飛行機で、牛や馬が寝そ べっているのがはっきり見える約1,700ftから2,000ft(ASL-Above Sea Level)の高度を維持しながらオンタリオの空を飛行しています。

オンタリオ州は、BC州やアルバータ州に比べて高い山々が無いので、360度ぐるっと地平線が見 えるのです。私達はVFR-Visual Flight Ruleといって、視界の良いお天気の日を選んで飛びます。そんな時、薄っすら湾曲している地平線を見ていると、ああっ、地球は丸いんだ!って分かるのです。

GPSや計器に慣れてしまっている今のフライトですが、こうして丸い地球を感じる時にはそれにしても昔の人の発見はすごい、と思ってしまいます。飛行機も無い時代に、この地球が球形だって事を証明したのですからね。

パイロットになる人は、大きく分けて3つのタイプがあるように私は思うのです。飛行科学の好きな人、スピードが好きで飛行機の模型や実物を作るのが好きな人、そして3番目は私のような、空に居ること自体が好きな人の3分類です。

空に浮いている気分、雲と接する事が出来るよう
な空に居るのが好きで、幼い頃はよく空を飛んでいる夢を見ていた「飛行少女」でした。夢の中 で、タッ、タッ、タッと走ってドーンと踏み切れば、いつも飛び上がれたのです。映画のスー パーマ ン の 様 に で は な く 、 私の場合には、 眼下に 広がる山々を見ながらの平泳ぎでした が(^ω^)…。

空が好きな私のルーツとは、一体何処から来たのだろう?生活に追われる日々から、ちょっと時間の余裕が出来た今年、新聞を通じて山口県の古谷さんに連絡が取れたのも何かのご縁なのでしょうか?父と母の何枚かの写真と一つのメダルが、その答えを導いてくれました。

2. 母と飛行機

送っていただいたこの写真は、1937年5月23日から5日間開催された“第一回全国帆走飛行競 技大会”。今からおよそ80年前に、日本初めてのグライダー大会が、大阪府東大阪市にあった盾津飛行場と生駒山で行われた時のものです。

1937年と言えば、アメリカでは女性パイロットのアメリア・イヤハートさんが世界一周飛行を試みていた頃ですが、そのアメリカでも、そして日本はもちろんの事、女性が飛行機に関わるなんて、空を飛ぶなんて、とても珍しい時代、“There is no place for woman”と言われていた頃の事です。

私の母は飛行機のエンジニアになりたくて、大阪の、今はもう無い金岡飛行クラブでグライダーに乗っていました。女学校時代はフィールドホッケーのゴールキーパーで、新聞に取り上げられたり、学校で制作された映画『大空へ』の主役にも抜擢されていて、以下の写真はその時に写したものと思われます。


母は化粧っ気もなく、女性としての贅沢もあまりしない人でしたが、私が広々としたカナダに憧れて日本を去ってしまった後、父と一緒に移住して来てくれ、78歳でノースバンクーバーの自宅で亡くなるまで大いに人生のチャレンジをした人でした。私が飛行機のライセンスを獲得した時、誰よりも喜んでくれたのが母でした。

その母が亡くなる前に、長い間大切にしていた一つのメダルを手渡してくれたのです。


その時、母が走り書きしたメモには、
・カナオカグライダークラブで飛んでいた事
・ササガワ・リョウさんが陸軍に寄付された土地で飛んでいた事
・生駒山のタテヅの斜面でグライダーや飛行機が飛んでいた事
・ホリ・マサオ陸軍中佐とセンタ海軍大佐からメダルをいただいた事
・カミカゼ号の飯塚飛行士の事
・毎日新聞航空部のマツシタ・シズル氏、塚越氏の事
・近鉄の長江さんの事

などなど、色々な事がメモしてあったのですが、何がどう繋がっているのか、詳しい話が解らないままになっていました。そんなおり、調べて下さった古谷さんからのメールが届いたのです。

お母様がお持ちだった滑空大会のメダルを私は初めて見ました。ちょっと読みづらいのですが、皇紀2597年とありますから、昭和12年(1937)のはずで、全日本帆走飛行競技大会とあり、日本帆走飛行連盟と帝国飛行協会とありますから、この年の5月23日から5日間に開催された同連盟・協会主催の「第一回全国帆走飛行競技大会」の参加記念メダルと断定して良いように思います。

今からおよそ80年前のグライダー大会です。ちなみに帆走飛行とはグライダーで飛行することの事で、当時はそのように言っていました。

『日本グライダー史』には「大会は盾津飛行場(大阪府東大阪市盾津「たてづ」(現在はありませんが、当時1,180mの芝の滑走路を備えた軍事飛行場)と、生駒山(奈良との境となるこの山の山頂からゴム索を用いてグライダーが離陸していました)で開催され、19名の選手が参加した」とあります。

おそらく離陸地点が生駒山山頂、着陸地点が盾津飛行場だったのだと思います。両者の距離はわずか4マイル弱、生駒山の山頂は630mくらいですから、滑空比12くらいで、そのまま滑空しても届きます。当時の高性能グライダーの滑空比は15以上ありましたから十分です。

その時の写真を添付しておきます。もしかしたら、この中にお母様がおられたのかも知れません。しかし、この時の選手19名は、当時の我が国の第一級のグライダーパイロットが参加していたはずで、残念ながら、まずお母様が競技に参加されたとは思えません。

もし、紅一点で参加されたとすれば、それが滑空史に残らぬはずがないからですが、そのような記述はでてきません。 おそらく大会の運営に「かなおかグライダークラブ」の一員として協力した御礼のメダルでは ないかと推測します。

なお「かなおかグライダークラブ」とは「金岡グライダークラブ」のことで、堺市にあったグライダークラブのことです。

このクラブ出身の吉川精一氏は昭和15年1月19日、生駒山から飛び立ち、滞空10時間、絶対高度2,810m、獲得高度2,320mの新記録を樹立しています。この時の 記録の公式立会人は、後のJAL社長となる松尾静磨(当時は逓信省航空局の職員)でした。

ご指摘の通り、母は競技には出場していないと思いますが、その時そこに居たのは確かです。 それにJALの社長・松尾静磨さんのお名前が出てきたのにも驚きました。私はトロントに来る前、JALのバンクーバー支店で20年近くお仕事をさせていただいたからです。

送っていただいた80年前の写真に、ひょっとして母が写っているのではないかと、ゆっくり端から見て行くと、「あっ!」と思った人が居るのです。丁度翼の下あたりに立っている右から3番目の人が母の後ろ姿に似ているな、と思った瞬間、鳥肌が立ちました。

他の帽子をかぶった、いかにも男性と思われる人に比べれば、ちょっときゃしゃな体つきだし、女性に見えませんか? そうであって欲しいという目で探していたので、そう感じたのかも知れませんが、ひょっとして、 まさかこれが若き日の母? あぁ、もしそうならと思うと80年の時を超えて会えたことが、嬉しく、懐かしく、胸が熱くなってくるのでした。


3. 父と飛行機
母が亡くなった後、バンクーバーに居る父と夏を過ごす為に、2000年にセスナ182に乗ってオンタリオ州のトロント、Buttonville Airport からBC州ヴィクトリアまでのカナダ横断フライトをしました。

この写真は私の操縦する飛行機でバンクーバーのBoundary Bay Airport からVictoriaへのフライトに乗ってくれた82歳の時の父です。「この歳まで生きられたのだから、何時どうなっても良いよ! 」などと冗談を言いながら…。


長距離飛行は、変化の多い気候に直面し、VFRで帰って来れなくなる時があります。そんな時に役立つのが、IFR-Instrument Flight Rule と言って、視界が悪くなっても計器を使って飛ぶ技術です。IFRの練習は実際飛んでいる飛行機内でもしますが、費用もかかるのでシミュレーターを使う事も多いのです。
これはFlying School生徒用のSimulatorで、Single engine、Twin engineの飛行機として飛行模擬訓練をすることが出来ます。

上の写真はボーイング777のSimulatorです。左はドン先生。ジェット機の経験をさせていただきました。覚えていらっしゃるでしょうか?2014年3月8日に消息を絶ったマレーシアエアライン MH370便、CNN放送局が飛行ルートやコクピットの様子を実況中継していたのが、このトロントにある777のシミュレーターからだったのです。

父は大学で心理学を学んだのですが、戦時中、希望したパイロットには選抜されず、土浦海軍予科錬航空隊の心理適性部へ配属され、予科練習生の心理検査を担当することになりました。

これは5cm四方の小さな写真なのですが、前に居るのが父。木製のSimulatorの下に付いているのがモーターです。その傾きや動きで特攻隊員が如何に対応するかによって、神風パイロットの適性を検査していました。








写真の前列、白の制服の二人のうち右側が父です。回りの若い兵隊さんは特攻隊のパイロットになる準備をしていた方々です。

予科練習生たちを操縦要員と整備要員とに分けるには心理テスト(クレペリンテストなど)を行い、操縦適性検査には模型機を使用して判断テストをしていたとのことです。

「テストに合格して特攻機のパイロットに選ばれていった若者が何人いたことだろう」と父は語ってくれましたが、亡くなられた方々の事を思い、余り多くの事は話しませんでした。

以下は、古谷さんが調べて下さった木製のシミュレーターについての記述です。

「帝国海軍のシミュレーター 土浦海軍航空隊」 土浦海軍航空隊のシミュレーターについて周辺情報を求めていましたが、友人から映画の紹介がありました。昭和18年に作られた「決戦の大空へ」という海軍宣伝映画の中に、地上練習機で訓練するシーンが約3分間映し出されます。YouTubeで見ることが出来ます。ヨーイング、 ピッチング、ローリングができる飛行基本の教材です。教官が「実際の飛行機と同じように動くのである。ただし、この飛行機は前へは進まない。お前らがヘマをやっても絶対に落ちる心配はない」などと説明しています。
お父様が残された写真のシミュレーターは、特攻要員を選別するための心理テストを行っていたということで、映画のものとは形が異なり、二人乗りで、後席には測定のメーターでもついて いたのかもしれません。


4. 温故知新
父はトロントで人生最後の10年間を沢山楽しみ、向こう側に旅立つ年に残してくれた書があります。

 “温故知新”-故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る-

山口県にいらっしゃる古谷さんのお陰で、私の飛行機のルーツも知る事が出来ました。 パトロールの仕事は、次世代パイロットに引き渡す教育も終わりに近づいています。

2017年は、「新しきを知る」為にFlight Instructorを目指したいと、一年の計を立てているところです。


伊達のり子
DATEQ
Aerial Photography and Investigation Service
flyngtiger848@gmail.com

参考: 「年表 山口県航空史1910-2010」著者: 古谷眞之助 shin-cas@c-able.ne.jp



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