リレー随筆


バンブーシーリング



IBM Canada 岩本 幸雄


カナダの大空をカナディアン・ギースが群れて飛来する雄大な光景をみると、電車や人ごみに囲まれて暮らしていた東京からずいぶん遠いところに来たものだと思う。そして自分が新入社員だったときに聞いた「野鴨たれ」というIBMで語り継がれている有名な言葉を思い出す。これはデンマークの哲学者キェルケゴールの話が元になっている。

「秋になると野鴨は食べ物を求めて南へと旅立つ。ある日、老人が野鴨にエサを与え始めた。すると、冬になっても、その野鴨は南へと飛び立たなくなってしまった。飛ばなくとも食べ物にありつけるので飛ぶことすらしなくなった。そして、その老人が亡くなると、その飼いならされた鴨たちはもはや飛ぶこともできず、全て死んでしまった。」

飼いならされるのではなく、自分の考えを持って独立した精神を忘れずにチャレンジすることを教える言葉だ。

テクノロジーや世界経済はめまぐるしく変化し、そのスピードはますます加速している。振り返れば、日本で大学卒業後に4年間お世話になった半導体回路設計の部門も、そしてその後6年余り働いたシステムインテグレーションの関連会社も今はない。チャレンジ精神を持って思い切って大きな変化を決断したからこそ今ここカナダに自分はいると思う。しかしながら、自分の主体性を失わずに目標をもって空を飛ぶということは自分一人の力では容易に達成出来る事ではない。多くの人たちと家族のサポートに恵まれ、運も手伝ってはじめて可能であった。

カナダに移住して5年ほど経って、「Leadership Education for Asian Pacific (LEAP) 」という一風変わった社外研修を受けた。研修の趣旨は「アジア・パシフィック(AP)系アメリカ人を対象に、多様化した北米社会におけるリーダーシップ能力を磨くこと」であった。平たく言うと、「AP系の人がアメリカでエグゼクティブになるにはどうすればいいか」という内容だった。参加者の殆どが生まれも育ちもアメリカで、AP系とは言ってもそれは外見だけ。英語が母国語でないのは私だけであった。私は毎日の仕事を片付けることに忙殺される日々でエグゼクティブへの昇進など微塵も考えたことがなかったし自主独立のチャレンジ精神も忘れかけていた。当時の上長に勧められて参加してはみたものの自分はなんと場違いなところへ来てしまったのかと最初は戸惑った。

米労働省の資料によれば、米国のシニアエグゼクティブにおけるアジア系の割合は0.3%未満。また、北米で生まれ育ったAP系アメリカ人は同程度の学歴、職歴、英語力をもつ白人にくらべて管理職につく可能性が7~11%程度低いそうである。女性のキャリアアップを阻む目に見えない天井を「グラスシーリング」と呼ぶ一方で、AP系アメリカ人のそれを「バンブーシーリング」と呼ぶ。他の人種よりも比較的高い教育を受けているといわれるAP系アメリカ人になぜこんなにもリーダーが少ないのか? これは差別によるものか、文化相対的な固定観念によるものか、それともAP系特有の言動や行動によるものなのか? 

研修では各界で活躍するAP系エグゼクティブの体験談を聞いたり、グループ討議を重ねたりしてその答えを探っていく。そこから見えてきたのは、AP系2世、3世にまで受け継がれている先祖代々の文化や習慣に基づく行動や思考が「バンブーシーリング」に影響を及ぼしているということ。そして研修やメンタリングによって自己を変革する事でその天井を突き破ることが可能であることを学んだ。この研修は私にとってまさにEye Openerとなった。

あの研修から7年余りが経ち、人々の幸せや成功に対する価値観もさらに多様化するなか、私を取り巻く家庭環境も少しずつ変わってきた。今年もカナディアン・ギースの雛が近所の芝生をよちよちと歩く季節がもうすぐやってくる。7歳になるカナダ生まれの娘と雪解け近いトロントの町を散歩しながら、家族の幸せや社会のためにいま自分がほんとうにチャレンジしたいことは何か、ふと立ち止まって改めて考える。


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