リレー随筆

プライド

フリーライター、翻訳者  佐藤 須美


あれはカナダ移民になって初めての夏だったから1996年のことだったと思う。7月1日カナダデーのその日、私は花火見物をしようとオンタリオ湖畔をぶらついていた。夜9時を過ぎたというのに外はまだ明るい。観光客と地元の人々で賑やかにごったがえしたハーバーフロントの沿道にはドリンクやホットドック、ハンバーガー、フレンチフライなどを販売するベンダートラックがずらりと並び、しのぎを削っている。そんな一団から少し離れたところに小さなソフトクリーム屋のトラックが一台ひっそりと商売をしていた。

当時の私はこのソフトクリームにハマっていて、特にバニラにチョコレートをディップしてもらうのがお気に入りだった。この夜も早速一つ買おうとこのトラックに近づこうとしたとき、一人の男が私を追い越していった。男は浅黒くがっちりした体格で背が高い。テカテカと無駄に光る派手なプリントの黒いTシャツが見るからに不穏だ。半そでからこれ見よがしにはみでた筋肉隆々の両腕に施された大きな刺青が「どけ!」と言ったような気がして、私はつい身を翻した。

男は無遠慮にソフトクリーム屋のトラックのピンクの水玉が踊る可愛らしいカウンターにもたれかかると、壁をゴンゴンと乱暴に叩いたり、執拗に中を覗き込んだりしていた。

ほどなくして、女主人が顔を出した。疲れたアッシュブラウンの長い髪を無造作に一つに束ね、濃い口紅をつけている。カウンターの水玉とお揃いのピンクのエプロンをつけているが、まるで似合っていない。彼女の眉間に刻まれた険しく深い2本のシワが、甘くて陽気なソフトクリーム屋には少々ミスマッチな感じがしたが、笑顔になると、どこにでもいそうな四十代半ばくらいの女性に見えた。

「あんた、誰に断ってここで商売してるんだい?」
男の威圧的で低い声が聞こえてきた。
「別に誰にも断ってやしないわよ」
笑顔を消して女主人は毅然と答えた。
「ああ、そうかい。じゃあ、ここに停まって商売してもらうわけにはいかねえなぁ」


男は巨体をゆすりながら、トラが敵を威嚇するような目つきで何度も女主人を怖がらせようとするのだが、彼女はひるむことなく淡々と言葉を返している。すっかり客が寄り付かなくなったトラックの前で2人はしばらく冷たい押し問答を続けていたが、遂に女主人がこう言った。
「あんたの言い分は分かったわ、私がここからトラックを移動すれば事はおさまるってわけね」
「分かりゃいいんだよ」
そう傲慢かつ満足げに答えた男を正面から見据えた女主人は、最後にぴしゃりとこう言って締めた。
「あんたの顔を立てて今日は私が折れようじゃないの。だけどね、今後、金輪際、私のトラックにそうやってだらしなく寄りかかったら承知しないよ!」

巨漢の男は突然の強い言葉にびくりとおののいて、思わず姿勢を正すと、母親に叱られた少年のような顔になった。そして、負け惜しみのようにピンクのカウンターをひと撫ですると、ただバツが悪そうな顔をして無言で歩き去っていった。胸のすく一言だった。彼女の静かな怒りと正当な言い分は、強面の男を絶句させるほどの威力があった。「あぁ、なんという絶妙なタイミングと端的な台詞で、きっちり本音を言える女性なんだろう」。一部始終を見ていた私はすっかり感動していた。

こうしてはいられない。彼女が立ち去る前に是非ソフトクリームを一つ買わせてもらおうと、私はトラックへと急いだ。近くでそれとなく事の行く末を見守っていた人たちも私と同じ思いだったのか、彼女のトラックには見る見るうちに人だかりができ、あっという間に行列ができるほどの客が集まってしまった。おそらく一晩で稼ぐ予定だった売り上げを一気に達成したと思われる彼女は、手早く店じまいをすると、遠くから監視するように立っていた巨漢の男に背を向けて、颯爽と走り去っていった。私があの男なら後悔させられるくらいの素早さと潔さで。

彼女の生き様の断片に出会った私の頭の中には「プライド」という言葉が浮かんでいた。そして、私は背筋を伸ばして、今夜どこにも行けない理不尽なやりとりをすっかり飲み込んだオンタリオ湖から吹いてくる夏の匂いがする空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

ふいに背後でドンという音が聞こえた。最初の花火が上がったらしかったが、夜空を彩る何も見えなかった。下を向いてアイスクリームを一口かじると、チョコレートの中から顔を出したバニラの白が突然ふわりと金色に輝いた。あわてて空を見上げると、まぶしいほど輝く光の雨が一斉に落ちてくるところだった。


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