リレー随筆

母親の命日

ジャパン コミュニケーションズ 河合 真一郎

319日は母親の命日である。もう25年以上も前のことだが66歳でくも膜下出血で急に逝ってしまった。私は河合家の長男なのだが、カナダの大学院で勉強するんだ(という名目で)勤めていた会社を辞め、それっきり日本に戻らなかった親不幸者だ。それでも母親は「カナダに行ったら戻ってこなくていいよ」と私を空港まで送ってくれた。その時付き合っていた彼女も一緒に送ってくれたが、飛行機に乗って一人になると、ワクワクする気持ちとないまぜになって突然、感情が込み上げてきて涙が止まらなかった。ガールフレンドには申し訳ないが、その時、私の心にいたのは母親だった。カナダに出かける程度のことで涙するなんて恥ずかしかったが、それまでの母親とのことが一瞬に凝縮されて思い出されたためなのだろう。

母親は軍医だったおじいちゃんの次女として厳格な家で育ったが、学校は、日本で初めての女性ジャーナリスト、羽仁もとこ氏が創立した「自由学園」だった。歌が好きで、キリスト教系の学校だったので、洗濯物を干しながらよく賛美歌を歌っていた。今でも賛美歌を聴くと母親を思い出す。母親は食料が不足していた戦時中に畑仕事を覚え、それが気に入ったらしくいつも庭にえんどう豆とかアスパラガス、人参などを植え、一時は鶏も飼っていた。私が思い出す母親のイメージは、ツクツクボウシの鳴き声が沁みる真夏の日に、麦わら帽子をかぶって草むしりをしている姿だ。

そんな母親のことで一番印象に残っているのは、茨城県、女方(おざかた)村版「はなさかじいさん」のエピソードだ。父の勤めていた会社が鬼怒川沿いの農村地帯に、当時はまだ珍しかったプラスチック製風呂桶などを造る工場を設立し、家族で引っ越すことになった。工場が本格的に稼動し始めると人が増え、社員住宅用の土地が足りなくなった。そこで会社は、昔、古墳だった小さな山々(4つくらいあったと思う)をブルドーザーで整地することになった。それを聞いた母親が、せっかくの古墳が無くなってしまうのはもったいないと会社と交渉してその山の1つを譲ってもらった。値段は30万円くらいだったと思う。もともと土いじりが好きな母親はそこに毎年、桜の苗を植えていった。数百本くらいあったと思う。それが春になって一斉に花を咲かせるようになると、この元古墳がちょっとした話題になりいろいろな人が花見に来るようになった。最終的に「山をそのままにしておく」という条件で会社がこの山を買いとってくれたのだが、その後、この桜の山がどうなったか確かめていない。

専業主婦だった母親は教育熱心で、特に最初のころは長男の私にいろいろな期待を持っていたようだ。しかし、一方で「いい大学に入れ、医者になれ」と言いながら、それとは矛盾するはずの「自分の好きなことを自由にやりなさい」というメッセージも子供たちに送ってくれた。今になって思うのだが、たぶん「こうしろ、ああしろ」の部分は社会の一員としての親の発言、そして「自由に生きなさい」というのは母親の本音、つまり母親自身がそういう生き方を求めていたのだろう。

おかげで、私は日本社会からちょっとはみだして、親戚一同では前にも後にも唯一のカナダ移民になり、私より数倍頭がよく成績優秀だった末っ子の弟も両親のひそかな期待を裏切って、大学卒業後の職業にジャズ・ピアニストを選んだ。

ずいぶん長い間、両親の墓参りをしていないが、今度、日本に行ったら母親が桜を植えた茨城の田舎に行ってみようと思う。いつも自然に囲まれて暮らしていた母親のことを思い出しながら、当時は一切手伝わなかった草むしりもしてみよう。ここまで書いてきたら急に、草むしりをする母親とは別のもうひとつの母親が浮かんできた。もう40を過ぎていたと思うが、ものすごくうれしそうにして家に帰ってきた。「どうしたの?」と聞くと「買い物に行ったら女の子が私のことをお姉さんて呼んだのよ」という返事。その時の母親の表情を思い出しながらお墓参りをしようと思う。

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