リレー随筆

2度のカナダ駐在生活を振り返って

Tsubaki of Canada Limited 上田 修

2回目のカナダ駐在生活も3年7ヵ月を過ぎようとしています。

1度目の駐在は1996年から5年間でしたが、初めての海外駐在で英語もままならず、苦労の連続でした。

赴任直後は、まず政府機関がストライキを敢行中で、1ヵ月近くSINナンバーはおろかカナダの運転免許も取得できないというスタートでした。カナダでは政府機関がストライキをするのだと驚いた覚えがあります。OHIPを取りに行っても、せっかく並んで1時間近く待たされた挙句、永住権のない日本人はOHIPを取得できないと追い返され、オフィスに戻って日本人の同僚にそのことを告げると、「ここではよくあること、違う日に違う担当者に当たれば大丈夫だから」と言われ、後日改めてチャレンジ。同僚の言った通り無事取得できたのですが、何となく納得がいかなかったのを覚えています。

赴任から1年後、家内が妊娠したときも苦労しました。ファミリードクターのところに行ったのですが、まず出産する病院を決める必要があるが、オンタリオ州の病院医師がストライキ中で新規患者の受け入れを拒否しているので、色々当たって探すように言われました。政府機関だけでなく病院までもがストライキとは!ミシサガだけでなくオークビルの病院にも電話しましたが、受け付けてもらえませんでした。結局、会社の現地人に相談してミシサガ病院(現在のTrillium Health Centre)の産婦人科医を紹介してもらいファミリードクターをそのドクターに変更することで事なきを得たのですが、それからも結構大変でした。

まず、英語の医学用語が全く理解できません。辞書を片手に筆談状態でした。定期検査もファミリードクターのところで済むのですが、超音波検査や羊水検査は別の専門医のところに自分で予約を取らなければなりませんでした。出産する病院のツアーも自分で予約し参加したのですが、これがまたまたチンプンカンプン、何となくここは陣痛室、分娩室、休憩室、などと言っているのは想像できるのですが、細かい説明が全く分からずじまい。他の現地人の方も大勢参加しておられたので、質問も出来ずに帰ってきてしまいました。

それから出産予定日の2週間前の定期検診で、ファミリードクターから出産予定日頃にバケーションを取る予定であること、知り合いの産婦人科医に代役をお願いしてあること、を告げられました。紹介してもらったのは女医さんで逆に家内は喜んでいましたが、出産予定日はずいぶん前から分かっていたはずでは?と、これまた納得のいかなかったのを覚えています。

そして出産当日。出産予定日を過ぎても家内の陣痛は来ず、ついにタイムリミット、まるで旅行に行くかのように家内と一緒にミシサガ病院へ。一人目の長女の出産は日本でしたので立ち会いませんでしたが、こちらでは立ち会うのが当然という雰囲気で、病院があまり好きではなかった私ですが、立ち会うことになりました。病院に入っても家内の陣痛の気配は全くなく、代役の女医さんに陣痛促進剤を打ってもらい、そして無事出産、長男誕生と相成りました。

とここまでは、良かったのですが。カナダの場合、経産婦は出産後24時間で退院しなければならず、間もなく退院という時に看護婦さんからOHIPの登録申込用紙を渡され、退院するまでに記入して提出するよう告げられました。書類を書き始めると当たり前ですが、なんと子供の名前欄が!日本のように出生届の提出は生後14日以内程度の感覚だったので、名前は生まれて子供の顔を見てからで良いやと、候補は絞り込んでいましたが最終決定はしていませんでした。慌てて家内と相談、ファーストネームは決まりましたが、付ける予定だったミドルネームは時間切れアウト。今でも悔やまれます。

その後、20013月に日本へ帰国。息子はまだ2歳でしたので、何もなかったのですが、娘は6歳になるまで5年間カナダ暮らしでしたので、色々ありました。まずは、トイレ。帰国してすぐに、市役所へ住民票を出しに行ったのですが、トイレに行った娘が変なトイレで出来なかったとすぐに帰ってきました。市役所のトイレは和式だったのです。日本の自宅も親戚の家も全部洋式トイレで一時帰国も含めて、娘にとっては初めての和式トイレだったのです。娘は、4月から小学校に入学する予定でしたので、娘のトレーニングのために家内が和式トイレのある家の近くの駅や百貨店に連れて行ったのを覚えています。学校に入ってからも、月や曜日、色などが英語でしか言えない、授業中に教室内を歩き回っている、等々、このままで大丈夫?と心配したこともありましたが、あっという間に日本の生活に慣れ、子供の環境適応能力の高さを実感させられました。

そして娘が、英語でもフランス語でも歌えたオー・カナダをすっかり忘れてしまった2008年、2度目の海外赴任で、7年振りに同じ地に舞い戻ることとなりました。勝手知った場所ということもあって、1回目のような苦労はないだろうと甘く見ていたのですが、前回は無縁だった子供達の教育問題が立ち塞がりました。

最近でこそ解放されましたが、大変だったのは、娘の現地校の宿題。小説のサマリー作成では小説を読まざるを得ません。カナダの歴史や政治の課題の場合は、分厚い教科書を毎日夜中まで読む羽目になりました。酷いときは、出張先までメールで追いかけられたものです。お蔭でカナダの歴史や政治のことが若干わかるようになりました。

一方、生活自体は文明の利器により前回よりも遥かに暮らしやすくなっていました。

まずは、インターネット。前回駐在時にもありましたが、今ほど普及しておらず、接続もモデムを使った電話回線で得られる情報も限られていました。日本の両親とのやり取りに必需品だったFAXも今回は不要。今は、子供達もインターネットを使いこなし、日本の友達とメールやスカイプでやり取りしたり、最新のヒット曲などをダウンロードして聞いています。前回のように海外駐在期間中に浦島太郎になるようなこともなくなりました。

次に、携帯電話。これも前回駐在時にもありましたが料金が高額で、持っている人は極僅かでした。前回の時は、カナダ駐在の先輩から、「冬は車に、ロウソク、毛布、100ドル札を積んでおけ」(ロウソクと毛布は夜に道中で車が動かなくなったときに凍死しない様に、100ドル札はレッカー車代)と言われたものですが、今は電話一本で助けを呼ぶことができます。

最後に、カーナビ。前回は、車に分厚い地図を積み、初めて行く所は下調べが必須でした。車で長旅をするときも、地図を見てナビ役をしている家内と口論をすることもなくなりました。特に便利になったのはゴルフ場へ行くときで、ゴルフ場の入り口がわからずゴルフ場の周りを1周するということもなくなりました。

唯一、不便になったのは、ミシサガにあった日本食品店の平成マートがなくなっていたことぐらいです。

来る前は、色々と言っていた家族もカナダ生活が快適らしく、日本の狭い家に帰るのが嫌だと言い出す始末。子供達の帰国後の進学が心配の種ではありますが、残されたカナダ生活をエンジョイしようと思う今日この頃です。

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