リレー随筆

年寄りの長話

元ソニー勤務 奥村 勝

昔の亡霊が出てきた様で何となく場違いではと思いながら投稿を引き受けてしまったので内容は自己紹介という事にしました。

私がトロント日本商工会にお世話になっていたのは1980年代でした。1975年に一家5人で日本から北緯50度に位置するウィニペグ市へ引越し、それもあの厳寒の地で新たな合弁会社設立、運営に邁進、一方家内と三人の息子達は西も東も解らず、そして日本人学校など存在しない僻地(?)で英語の習得から生活が始まりました。360度地平線が見える町、冬にはマイナス40度にもなる町、車のタイヤが凍る町、エンジン、ガソリンタンクを包むヒーター付きの車が必要な町、その為に駐車場にはコンセントが設備されている町、米国側に積雪が多い年は春先に河があふれ水害が起こる町、こんな日本では全く経験しなかったとんでもない地で約4年、四冬を暮らした町、それでも住んででいる人達は例外なく温かい人達ばかりが暮らす不思議な町、それがウィニペグでした。

平たく言えば海を見た事がないという人達が大勢居るという田舎町って事ですが、家族にとっては初めての海外生活がカナダであり最初の居住地がウィニペグだった事は幸いだったと今も思っています。学校の校長、先生達、父兄達、コミュニティーの人達、会社の同僚達更に道を歩いていれば知らない人達とも挨拶を交わす、田舎町、小さな町の良さを嫌というほど味わい、多くの人達と今も交流が続いています。

ソニーはカナダとは深い縁があり世界最初のトランジスタラジオを1956年に輸出したのがカナダ、という歴史がありました。通常他国では販売会社の合弁はやらず100%子会社の設立を世界各国で広げていたにも拘らず両社のトップの関係が特別だった為一世代だけ、20年間の限定合弁会社の設立に踏み切りました。偶々日本で欧米担当だった私にカナダでの合弁会社設立プロジェクトの任務が与えられこれを纏めれば希望している米国勤務につけるとかなり張り切っていました。最終的な提案書提出の際日本から優秀な若手を経営陣に加え常駐させる事を強く主張しました。理由は、カナダ側のパートナーは一代で多くの事業を成功させたユダヤ人6人兄弟一家、それも統帥は長男ではなく6人の中で最も優秀でハードネゴシエーターの三男の猛者に彼流に運営されては我々の練り上げた中期計画の達成が危うくなると画策したのです。

最終決裁の為に提案書と5年の中期計画を提出、これで全て終わったとNYへの赴任準備に入りました。所が荷物を出す二週間前に欧米事業の総括もかねていた当時会長だったソニー創設者の一人から呼びだされ合弁プロジェクトの膨大な資料と共にカナダへ赴任せよとの命令、思わず私は米国勤務の辞令を受け取っていますと反抗、所がこの大ボスは若い社員の心を掴む手だてに長けている人でした。

「なあ、奥村君、確かにNY勤務の許可は出したが、承知しているように我が社は朝令暮改大いに結構という社風、良く考えてご覧、今米国へ行っても多くの米国人、日本人は先輩ばかり、今のままだとその誰かのアシスタントにされるのがオチ、君が希望している経営には直接関与出来ず歯車の一つになる可能性が大だよ。カナダであれば新たに設立した新会社、それの日本代表として経営責任も持てるし相手は名だたるタフなパートナー、功を焦る必要はなし、10年一区切りでじっくりやってくれ、これが出来るのは君しか居らんだろうが」。いやあ、またやられた!コロリと騙されましたが、結果は正解だったと今も感謝しています。

何処の町に居てもカナダの風土がすっかり気に入り、次男一家、三男一家はカナダ居住、長男一家は現在カリフォニア在住と北米住まいとなっており、我々夫婦も当地で人生の幕を下ろす積りでいます。

日本に対しては少々申し訳ないと思っている事が一つあります。5人で北極に近いウィニペグへ来た後1979年に合弁会社の本拠をトロントへ移しました。その為キャンパスは異なりますが三人の息子達は共にトロント大学卒業、そして夫々結婚し今は我が家総計15人に増えています。今の所全員北米居住のつもり、という事は日本の少子化防止、人口減防止には役立たずですし更に我が家の息子達は日本人或いは日系のお嬢さんを嫁に出来なかったので将来日本へ居住し生活する可能性は更に薄くなってしまいました。

年寄りの長話に付き合って戴き感謝します。

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