リレー随筆

旅の途中にいる娘たちへ

中井 貴惠

「成田空港まであと三十キロ」

高速道路でこの標識を見るたびにうんざりする。いったいここどこの国?都心からこの異様に不便な国際空港までの長い道のりを、娘たちの送迎のために年に何回も往復する生活を続けて早七年が過ぎた。

それにしても遠い。やっと今年、新羽田国際空港から海外への離発着が始まったが、私のお目当てである北米線の数は少ない。我が家の娘たちが住むのはカナダ、トロント。ここへの便はいつも成田からだ。それにしても車を走らせるたびに先進国でありながらこんな不便な空港を使っている国も珍しいと幾度も思う。あっという間に終わってしまった長いはずの夏休み。今年も約一ヶ月の日本滞在を終えトロントに帰る娘のために私はまた成田空港まで車を走らせていた。

長女がトロントに住み始めたのは今から三年前。三年間の高校生活をバンクーバーで過ごし大学からトロントに移り住んだ。その一年後、今度は次女がトロントの高校に留学。二人とも海外での生活を始めたのはそれぞれ十五才の時だ。

「まぁ、お嬢ちゃん二人ともよく海外へ出しましたね。」と会う人によく言われる。考えてみれば二人の子供を出産したとき、まさかこの子供たちが高校から海外での生活を始めるとは考えてもみなかった。

三十才を過ぎてからアメリカの大学院に行った夫は英語でとことん苦労した。そして六才から母子家庭で育った私には海外旅行はおろか海外留学などという四文字は自分の人生設計にはまったくなかった。私にとっては「憧れ」に近く、そして夫にとっては「若いうちに英語を身につけて」、とそれぞれの思いは違っても自分たちのできなかった夢を子供たちに託すように二人の子供を海外へと送り出した。

長女は一年を過ぎたころから水を得た魚のように海外での生活に順応し、十一年生の時にはひとりで航空券を調達し、大学の見学に行くとバンクーバーから厳寒のトロントへと飛んでいった。こちらは洋食派で、焼き魚や納豆がなくても生きていけるタイプである。しかし二年前から留学した次女ときたら「自分は和食がないと生きて行かれない」という確固たる理由からかたくなに海外留学はしないと断言していた。ところが、何の風の吹き回しか「やっぱり行く」といいだし、入学の手続きぎりぎりで慌ててトロントの高校をリサーチするはめになった。こちらは姉に頼りながらも、ようやくトロントでの生活に慣れてきたところである。

インターネットという時代の産物のおかげで、何千キロもの海を隔てていても我が子の顔を見ながら話が(しかも無料で)できる時代となった。それでも一緒に暮らしていないのだから、毎日の生活に手を出したり、口を出したりすることはできない。いったいちゃんと寝坊せずに学校に行っているのだろうか?友達とはちゃんと英語でコミュニケーションできているのだろうか?礼儀や秩序を守って日々暮らしているのだろうか?親の心配や不安はつきないものである。

しかし、そばにいれば手をさしのべるであろうときにも、それが物理的にできないということは子育ての上ではとても重要なことなのではないかと思うことがある。親がそばにいればどうしても手をさしのべ、転ばぬ先の杖となる。しかし離れていればそれはできない。異言語、異文化を持つ外国の中で、日本との違いを考えながらその国のやり方に順応していかなければならない。子供たちは自分で困り、自分で考え、自分で道を切り拓いていかなければならない、それが海外留学である。

一年に数回しか顔を合わせなくなった娘たちだが、果たして手元において育てた方が良く育ったのか、それともこうやって自分たちのそばからはなしたほうが良く育ったのか、それはまだ未知数である。でも子供たちは口々に言う。「十五才で他人様にあずけてくれたおかげでこれだけたくましくなった・・・」と。

通い慣れたこの不便な成田空港。

出発の前日ぎりぎりに手慣れた手つきで大きなトランクに荷物を詰めこみ、まるで国内旅行でも行くごとく「じゃーね、またクリスマスにね」とひらひらと手を振って娘たちは機内へと消えていった。

エスカレーターから姿が消えると、いつも一抹の寂しさがこみ上げる。

でも、「これでいいんだね」と夫と私。世界中どこででも生きて行かれる力を身につけてくれればそれでいい。どこへでも自分の足で歩いて行かれる人間になってくれればそれでいい。時代とともに世界の距離は確実に縮まっているのだから。

まだまだ旅の途中にいる娘たちにエールを送りながら、私はまたあの長い道のりを東京まで車を走らせた。

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