リレー随筆

初めての経験

船坂まり

九年前に亡くなった夫が某商社のモントリオール出張所開設の為、転勤したのは一九五六年九月のことでした。

彼の古い旅券を見ますと「右の者は日本国民であって貿易促進のため米国及びカナダへ赴くから通路故障なく旅行させ且つ必要な保護扶助を与えられる様その筋の諸官に要請する 昭和三十一年九月六日」と書かれ、旅券番号は192478でした。最近の旅券と較べますと当時のものは渡航理由など仲々具体的に書かれています。

旅券の後には「対外支払手段売却証明書」が貼付され「出国者名」や「売却した対外支払手段の種類及び金額」とあり「T.C.$1.150-Cash $50-」との事。T.C.は兎も角現金は僅か50弗だったのかとびっくりです。「外国為替銀行店舗名」は三井銀行とローマ字で紫色のスタンプが押してありました。因みに当時の日本国外務大臣は小坂善太郎氏でした。

当時まだ家族は同行出来ませんでしたので、私は五才と十一ヶ月の子供を連れて羽田空港へ見送りに行きました。夫は三十七才、多分課長代理だったと思いますが、まだ海外勤務の少ない時節でしたから見送り人の為に一室設けられ、部長、課長さんはじめ課員総出の見送りの上、取引先の方々や友人等も来られて大変晴れがましい思いをした事が忘れられません。愈々出発時刻になり、まるで出征兵士の様に「万歳」の声に送られてゲートに入って行きましたら、二人の息子が「パパー」と泣き出しまして私まで胸がつまりましたが、グッと頑張りまして見送りにいらした方に丁寧におじぎをしてお礼を申しました。

会社差廻しの車で自宅に戻りましたら既に夜の帳も下りていて真っ暗の家に入って初めてこれから一年、夫無しで住んでいくのだと思いました。当時は国際電話でお互い話す様なことは考えられず、長い時間をかけての文通でしたが、偶に来る便りと言えば「忙しい」の一言だとか「読む暇は有るが書く暇は無い。そちらの様子を詳しく知らせて来る様に」なんて勝手な注文でしたが、そこは暇になった私のこと、子供を寝かしつけてから其の日その日の出来事を書き、子供の写真や新聞の切抜きを同封して三日に挙げず郵便局に持って行ったので、お馴染みになった局員さんが「切手代が大変ですね」と同情してくれました。

但し彼は会社にはよく報告書を送っていたらしく、度々課の方から「御主人は今トロントに出張中です」とか「オフィスをもう少し広い所に移されました」等と御親切に知らせを頂いて有難いことでした。

長い様で短かった一年もどうやら母子三人とも元気に過ごし、八月半ば頃、家族も行ける許可が会社から下りまして、色々の手続きに結構時間がかかりましたが、やっと旅券が発行されました。私の旅券番号は227043、「夫と同居のためカナダ(米国経由)へ」と書かれていました。添付の写真は五才と一才の息子を両膝に乗せて写っています。許可されたお金は、T.C.US $60-Cash $120-となっています。そして外務大臣、臨時代表内閣総理大臣岸信介とあります。

愈々忘れもしない一九五七年十月十五日の夕方、六歳になったばかりの長男と二才になったばかりの次男と共に会社の方々や友人達に見送られてノースウェスト機で任地に向かいましたが、当時の乗客と言えば殆どが如何にもエリートと思われる男性ばかり、そこに六才の長男は酔ってしまうし、二才の次男は元気溢れて兎角狭い通路をヨタヨタ歩き出すので、皆の顰蹙を買うし、スチュアデスも冷たい目で見る有様で、私は一人を片手で背をさすり、一人をもう一方の手でひっ掴まえての長旅でした。その頃はプロペラ機でしたから途中アラスカで給油の為ストップ。そこではもう吹雪で空港に行くのに子供達は乗務員に夫々抱えられて辿り着きました。

数時間後、吹雪の中を再び機上の人となり、今度はシアトルに到着。初めて税関で質問されている最中に「ママ、オシッコ」と言う有様。税関員も同情してくれたのか調べもそこそこで済んだのは幸せでした。夫から本社の方に「丁度ニューヨークの会議に出張しているのでそこで家族と会う」と通知してあった為、今度は別の乗り場に案内されてその日の中にニューヨークに。

羽田からニューヨークに到着する迄、確か三十時間ほどかかった筈で、子供の守りと緊張で本当にくたびれました。スーツケースの他に手荷物として子供の下着やお八つ、絵本等を風呂敷に包んで持って行ったのですが、空港で一年ぶりに会った夫の最初の言葉が「風呂敷なんて見っともない」、と申しまして一層疲れが出た様な気のした事も忘れられません

兎も角ホテルに落ち着き、此方は本当にくたびれているのに、夫は張り切って「さあ見物に出かけよう」と言うので逆らいもならず夢中でついて廻りました。 五番街を歩いていたら向こうから真っ白なロングコートを着た若い女性がさっそうと歩いて来たのを見て二才になったばかりの次男が「キレネー」と立止まって感心した事も忘れられない思い出です。評判の五番街もその日は北風が吹いてとても寒く街路はゴミや古新聞が舞立っていて「銀座より汚いじゃない!」と思った事も記憶に残っています。

数日後、親子四人揃って今度は汽車でモントリオールに向かいました。車窓から見る景色は既に紅葉も終わり、枯木同然の樹々の間を走り、時にリスや狐の姿を見つけて喚声を上げ、頻りに粉雪の舞う中を「本当に北国に向かっているのだ」と実感しました。一才になるならずで夫と別れた次男は父親に向かって「オジチャン」と呼びかけるので、夫はその度に「これはパパだよ」と訂正しているのもおかしいものでした。

やっとやっとモントリオール駅に到着。夫の友人の迎えの車とタクシーに分乗して大荷物と共にこれから住む家に辿り着いて、それから六年をすごす事になります。もう半世紀以上も前に、初めて外国に出て来た当時のことを書いてみました。国際電話をかけるのも半日仕事、テレックスの判読やら、休暇をとってアメリカに行くのも本社の許可が必要でした。現在では信じられない様な頃の遠い遠い昔話です。

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