リレー随筆

中国系日系カナダ人の私

帥 元紀(すい げんき)

私はトロント在住の中国系カナダ人です。私自身はピアニストで、映画音楽作曲を専門にした夫と1994年にカナダに移住して来ました。中国系といいましたけれど、正確には「中国系日系カナダ人」と名乗るのが正しいかもしれません。それは自分の生い立ちを語る時に、日本を抜きにしては語れないからです。私はそれを誇りにも思っております。今から始めるほんの少し長いお話を聞いていただれば嬉しいです。そして、私が日系と付け加えたわけを分かっていただけるでしょう。

話は父の時代に始まります。

父・雲風(ウンフ)は1900年、中国の湖北省で生まれました。若くして二親と別れた父は、親戚に引き取られて育てられたので、大人たちに混って農作業を手伝うなどして困難な十代を過ごしたが、向学心に燃えた父は学問を目指して単身上海に出て同文書院に学びました。当時、中国は1900年に始まった八国聯軍の終戦の決算の賠償金を教育面に充てるという方針で、庚子賠(義和団事件の後、締結された辛丑条約で清朝政府が要求された賠償金)の下で国費留学生を募り試験を行っており、折よくその試験に合格した父が、日本に行って早稲田専門学校(現・早大)で学ぶことになったのは1929年のことだった。折しもこの年は世界大恐慌の年でもある。

父・雲風は留学先の日本で、その後の私たち家族にとっては日本の母、私にとっては親愛の情を込めて「おばあちゃん」と呼んだ女性、竹中繁女史と出会うことになる。

手元に竹中繁女史に関する、セピア色に変色した古い新聞の死亡欄の切り抜き(1963年)があるので、そのまま記述したい。

「竹中繁氏折去婦人記者の草分けである竹中繁氏(92歳)が、10月29日午後820分 千葉県市原市舞鶴の自宅で、心臓麻痺で急死した。東京女子学院を卒業後、明治45年から昭和9年まで朝日新聞社の記者として勤務、早くから中国との友好に心を寄せ、数回中国を訪問して多数の友人を持つと同時に、在日中国青年の世話を親身に尽くした。また、婦選運動の隠れた良き理解者であった。11月9日午後、市川房枝地が葬儀委員長となり婦選会舘大会議室、葬儀と告別式が行われた。」

◆女性記者の嚆矢(こうし)

中国各地から選ばれて早稲田で学び始めた父だったが、国費で支払われたのは授業料のみであったから、東京での日常の暮らしは容易ではなかった。食うや食わずのどん底生活だった。その貧乏留学生の父に住まい一部を提供し下宿させ何かと援助の手を差し伸べてくれたのが竹中繁だった。私たち家族敬愛の気持ちを込めて「おばあちゃん」と呼んだその、日本で女性初の新聞記者明治大正昭和のほぼ一世を生きた類稀なる人であった。

早稲田大学政治経済学部を終了し中国に帰ってからも、父どん底時代に援助の手を差し伸べてくれ彼女への恩を一時も忘れることはかった。恩を返さなければ人ではない」。繰り返しそう言っていた父の言葉を、私は幼心に覚えている。

中国に戻った父は大学教授として広西省桂林にある西南聯合国大学で教鞭をとったが、貿易を仕事にしていた親友に、商売の方が向いていると誘われて、貿易の仕事に方向転換したのだった。その間、父は妻を娶り(母・呂同壁)、私を含めて八人の子を生した。

父の新しい職場は国営の塩を商う会社で中国塩業公司といった。父は塩の商いのため、戦乱の中国大陸を点々と移動して回った。一方、次々と子供たちをコレラでなくし、私と弟だけが残った。そして、1945年から48年まで、台湾をベースに塩業を商ったが、1948年、父は私たち家族を連れ、台湾から東京へ移り、中国国営塩業会社を設立し、とりあえず杉並区高円寺に仮住まいした後、阿佐ヶ谷に格好の家を見つけてそこに居を構えた。

私はそこで、10歳から8年間過ごした。今でもその住所ははっきりと記憶している。「東京都杉並区阿佐ヶ谷6丁目91番地」懐かしい響きだ。私は小学校の残りの一年、高円寺の大和小学校に通い、その後、音楽の道を志して中学、高校と国立市にある国立音楽学校のピアノ科に進んだ。

◆報恩の時

台湾から日本へと仕事場を移して以来、父雲風は人探しを始めていた。早稲田を出てから、かれこれ四半世紀の年月が経っていた。さまざな動乱や革命の時代を通して中国各地を点々とし、あっという間に年月が過ぎた。が、父は若い頃に恩を受けた人を決して忘れていたわけではなかった。

まもなくして千葉県市原市に隠遁していた竹中繁さんに再会することが出来た。父は彼女に自分たち家族と一緒に住むように勧めた。若い者たちに負担をかけたくないと最初は断られたが、父の熱意が最後にはかない、私たちは繁おばあちゃんを加えて、父母弟私との5人家族として一緒に暮らすことになった。

父は早速阿佐ヶ谷の家の母屋の離れの車庫を洗面所付きの八畳の畳の間に作り替えて、そこが「おばあちゃん」の部屋になった。当時、私は10歳の少女だったが、国立の音楽学校に通った18歳までの9年の間、竹中のおばあちゃんとの思い出は数えきれない。苦手だったお裁縫もおばあちゃんから教わった。英語の勉強もみてもらった。私の人生の中でも実り多い、幸せな時間のかさなりであったと今思う。

阿佐ヶ谷の街の思い出もたくさんある。私の家のぐるりに垣根があり、玄関を出ると垣根に沿ってやっと人が一人通れる1メートルほどの巾の細い道が付いていた。その細道は杉並区と中野区を区切る境界線の役割をしていた。だから、杉並阿区阿佐ヶ谷六丁目91番地の私の家を出るときは、いつもたったの一跨ぎで忍者のように中野区に行けるのだった。朝迎えに来る仲良しの友達とこの一跨ぎの忍術を盛んに面白がったものだ。

ひとつ忘れ難い思い出がある。それは甘い味がする。家のすぐ前にバス停があった。新宿駅西口行きのバスの停まるところで、確か「お伊勢の森」という名前だった。そのバス停の向かい側に「謙村(かねむら)」という屋号の老舗の和菓子屋さんがあった。店の玄関には店名を染め抜いた藍染の暖簾が掛かっていて、いかにも老舗らしい風情があった。店先にはその時度に桜餅やちまき、柏餅などが並んで、律儀に季節を知らせてくれていた。その「かねむら」の和菓子は、竹中のおばあちゃんの大のお気に入りだった。仕事から帰って来る父雲風の手にはいつも「かねむら」のお菓子の箱があって、おばあちゃんを喜ばせた。

このおばあちゃんの和菓子には後日談がある。後に父がなくなったとき、私たち親子は中国に帰るための準備の間、阿佐ヶ谷の家を売り払って荻窪の小さな家に移った。おばあちゃんは自分の千葉の舞鶴の家に戻ることになった。その引っ越しの数日前、母(呂同壁)はお向かいの「かねむら」に行って、「今後も引き続きおばあちゃんが生きている間、ずうっと好物の和菓子が食べられるように」と、ご主人に千葉の家まで和菓子を届けてくれるように頼んだ。その代金の前払いとして、母は二万円を包んでいった。が、「かねむら」のご主人は、「この先は私どもにさせていただきます。私どもにさせてください」と言って、母の申し出は断られたのだった。人柄のよさそうなご主人だったと記憶しているが、学問もある人だったそうだ。

◆暗転

満ち足りた日常は、1956年の半ば頃から暗転した。父は体調を崩して病院通いをするようになっていた。翌1957年、肝臓癌であることが分かった。そして、九段坂の病院で、父は57歳の生涯を閉じた。働き盛りの脂の乗りきった年齢であった。残された母と私と弟の家族三人に、竹中のおばあちゃんはいろいろと優しく気を遣ってくれた。父の葬儀やその後の弔問客のために、仏間が必要だろうと自分の離れの部屋を空けてくれた。おばあちゃんを加えて本当の家族のように充実していた私の生活は、父の死によってこのように急転したのだった。

母と私と弟の日常はにわかに慌ただしいものになった。私と弟の学校のこと、父の建てた思い出深い阿佐ヶ谷の家を売却して、荻窪に小ぶりの家を見つけて引っ越しした。次に私遺族が中国に帰るための手続きをしなければならなかったが、その手続きが思いの他難航した。当時の中国の国内情勢は、毛沢東の共産党と、蒋介石が率いる国民党とが真っ正面から対立して争っていた。父雲風が国民党の党員だったという微妙な身分だったため、日本国としてはどちらにも介入できないということもまた微妙な立場だったのであろう。帰国のためのビザの申請がなかなか受け付けてもらえなかった。そこで、政治色を持たない日本赤十字が、私たち家族の面倒をみてくれることになり、19589月、赤十字が用意しくれた船、その当時、引揚者を乗せて日中間を往来していた白山丸に乗って、中国への帰国を果たしたのだった。父の死から丸一年が経っていた。

私たち親子は取り敢えず母方の祖母を頼って北京に住み、私は日本の国立の音楽学校で終えた六年間のピアノの勉強を続けるため中国音楽学院の試験を受けた。実技試験は幸い難なく合格したが、中国人としての一般教養ではかなりの遅れをとっていた。特に中国の社会や国情についての知識は乏しいというより皆無に近かった。私は一昔前の日本での帰国子女のまさに中国版だった。そのための中国音楽学院の1年目はピアノの勉強は二の次で、特別の補習校に通って中国人が備えるべき一般教養を学ぶために費やした。その後に続く五年(中国の大学は五年制)を経て、結局、音楽の道を志して国立の音楽院に入学してから、私がピアノを習得し終えるまで12年の年月が掛かった。卒業すると就職先は政府が成績によって割当る。自分の希望や好き嫌いは言えないが職にありつけないという心配はない。一番の成績で卒業してもびりっかすでも、給料は一律に支払われる。

1964年に大学を終了すると、就職先として中国音楽院に配属された。職場が音楽学院だといっても専門のピアノを教えたのではない。4月から10月の半年間、西省西安市に移動する辞令が出て、当時の中国政府の四清運動の方針にそって、労働や会議に明け暮れた。汗水を流して労働することは中国の国民であることの証となるのであった。田畑を耕すお百姓さんとともに水田作業やもっこ担ぎも経験した。これらの労働はどんな職業に就く人にも課せられた。いわば中国社会に出るためのインターンの期間であった。その後、8ヶ月間はまた学校に戻って音楽教師の職務に就いた。

19666月から始まり1977年に終った、かの文化革命の間は、天津の近くの軍城の農村地帯で(1970-74年)勤労に従事した。そして、1974年文化大革命の嵐がようやく下火になった年の秋、私は北京にある私の母校である中央音楽院のピアノ教師としてようやく田舎から戻された。その後、1984年までの10年間、本来の仕事であるピアノ教師として鍵盤に向かうことになった。

どちらかという私は教えることより、自ら演奏することを好んだので、後に管弦楽課を選択して才能のある管弦楽の演奏家のためのピアノ伴奏を専門にするようになった。ピアノ弾きがこうしてピアノを人並みに弾けるようになるまでなんと20年以上の年月が掛かったことになるが、これは私が運が良いとか悪いとかの問題ではない。当時の中国では、195657年のチャイコスフキー・コンクールで入賞して世界中から喝采を受けた演奏家さえ、国からもらう月55元が唯一生活の糧になる、そんな情勢だったからだ。

その後、私は1980年に香港の親戚を頼って香港に移るための申請書を政府に願い出た。申請が受理されるまでに丸4年がかかった。香港に移り、ピアノの個人レッスンを仕事にして、私は初めて自分の働きで収入を得たのだった。

◆邂逅、惜別、そして再会

それまでの共産圏での束縛から解き放たれ、7年間香港に住んだ後、私は英国の発行するビザを獲得し、やっと世界のどこにでもいくことが出来るパスポートを手にした。1991年、国立の音楽院当時の同窓会に誘われ、日本に飛んだ。引き揚げ船白山丸で日本を離れて以来33年ぶりの再会だった。50代になっていた懐かしい仲間たちは、中国から参加した私を「げんきちゃん」と昔の名で呼んで大歓迎してくれた。

以前住んでいた阿佐ヶ谷界隈は大きく様変わりしていて、昔の面影をほとんど残していなかった。日本の友人たちにとっても戦後まもなくからの33年間は、怒濤のごとく過ぎ去った年月であった。時はいつの時代もこのように荒々しく過ぎ去っていくのかもしれない。思い出の場所に立った時も、私は嘆かなかった。

そして、あらためて父雲風のことを思った。父は57歳という年齢で亡くなってしまったが、稀にみるダイナミックな人生をおくったと思う。人は生きている間にたくさんの出会いがあるものだが、竹中氏との出会いは、父に前進する力を与えたと思う。恵まれなかった少年時代、向学心に燃えた青年時代、竹中繁と出会った留学時代、中国帰国後、荒波のなか中国大陸を仕事のため転々とした時代を経て、貿易商として成功し、再び日本で恩ある人との再会を果たした。父なりの人生をまっすぐに全うしたのである。

その後、カナダ留学を経てこの地で家庭を築いている娘と合流すべく、移住してきた。こうして、私の人生も多くの出会いと別れを繰り返しながら進んでいくが、父が私たち家族に与えてくれた日本での充実した年月の記憶はいつまでも私とともにあり、これからも私の人生の糊代となって支えてくれることだろう。

*この文章は、数回にわたる談話をトロント在住の友人岩崎昌子氏の手を煩わせてエッセイとしてまとめていただいた。ここに謝意を表したい。

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