リレー随筆

北へ北へ


岩崎昌子

初対面で、人はく聞くものだが、「あなたの故郷は?」と訊ねられると私は答えに窮する。父の仕事の都合で転勤が多かったし、結婚後も何度も住まいを替えた。特別に「ここが私の故郷です」と言い切れるところもないし、執着するところもない。でもこんな曖昧な答えが許されるなら「私の故郷は北の方角です」と答えるに違いない。生まれたのは満州である。父が北大工学部を卒業した年は1929年の暮れに始まった世界大恐慌時代の真っ只中で、いわゆる「大学は出たけれど・・・」の一大就職難の時代だった。運良く日本電信電話公社(NTTの前身)に職を得た父は、結婚して間もなくの妻を伴なって満州に赴任した。満州の各地に送電所を開設するエンジニアとして赴いたのである。こうして姉も私も、満州生まれである。生まれながらにして私は北を向いていたようだ。

戦況が悪化する前に帰国した私の家族は幸い、引き揚げ者ではなく、ただの引越し者として無事日本に帰ることが出来た。私はまだ一歳だった。帰国後、父はNHKに転職して定年まで勤め上げたが、現役中は東京を振り出しに東京に戻るまでのほとんどの年月を北の方角で過ごした。山形、札幌と娘時代の私の人生の羅針盤はいつも北を指してきた。

夫・岩崎力は鹿児島の出身だったから、岩崎との出会いは私にとって生まれて初めての南との出会いでもあった。その南の夫が10年勤めたS商事を退職してカナダに行こうと言い出したのが1969年のことで、当時はまだ会社を自ら辞めて、外国に出て行くような事をするものは、あまりいなかった。脱サラという言葉が使われるようになったのは、それから暫く経ってからだ。「昌子の好物のグレープフルーツが毎日食べられるよ」という夫の誘いに軽く乗って、1970年にカナダにやってきたのだった。グレープフルーツといえば、当時は銀座の高野や紀伊国屋の果物売り場で、黄色の薄紙に大事に包まれて並ぶ「高嶺の花」だった。

こうして私の人生は再び北を向くことになった。当時のトロントの冬はマイナス30度を越えることなど珍しくなかった。ブリザードが吹き捲った。少女時代に経験していた日本の東北地方のほっこりとした寒さと質の違う北方の乾いた寒さを感じた。初めて首都オタワを訪問したのはその年の5月、チューリップの季節だった。この早春のオタワの街角で私は私の人生を更に北へと誘うものと運命的に出会ったのだった。

●北極アートとの出会い

それは小さな画廊のショーウインドウの中に掛けてあった一枚の布製の壁掛けだった。布は丁度厚手の毛布のような素材で(スコットランド・ダッフル)この赤い布で縁取られた明るい水色の布のキャンバスの中には鱒や水鳥、アザラシの親子、カリブーを狩る人、カヤックで魚を獲っている人、煙の立ち上る氷の家(イグルー)、獲物を積んで嬉しそうに帰って来る犬ぞりなどの図柄が、最も単純化された形のアップリケで縫い取られている。素朴で、力の込められた、子どもではなく、子供心で描かれた布絵である。

私にとってこの水色の世界は、今まで見たことのない不思議な世界だった。この壁掛けを最初のオタワ訪問の土産として持ち帰ったが、この不思議に心引かれる壁掛けが、北極の永久凍土に住むカナダの先住民族イヌイットの女の人の手作りであることを知ったのは、それから暫く経ってからだった。

その後、この楽しい壁掛けに一枚一枚と出会って1990年の後半には100枚を越える数になっていた。確かに私は生まれながらのコレクターだった。幼い頃からポケットの中はいつでも木の実や形の良い貝殻や小石でいっぱい詰まっていたが、これだけの数を集められたのは、何事にも思い入れの強い私の性格を理解して、長い眼で見守り、後援してくれた夫のお蔭であった。更に岩崎が一時NWT(北西準州)の経済顧問を勤めたことで、壁掛けだけでなく版画や彫刻などの優れた北極アートに出会うことが出来た由縁である。

1990年代に私は2度ほど北極地方を旅した。最初の旅はバフィン島のパンギニアタングに行き、北極で唯一の織物センターの織り子さんのリーシー家にホームステイさせてもらった。まったく一人きりの旅だった。夫の事前のアレンジが有ってのことだったが、永久凍土の上に住む人たちとの10日間の生活は、時間も空間も、私を取り巻くすべてのものが、南にいる時の(イヌイットの人たちは私を「南の人」と呼んだ)想像をはるかに超えて新鮮で驚きに満ちていた。この時の旅の記録は私だけの思い出として534ページ(400字詰め原稿用紙)に記録してある。

二度目の北極の旅行は、カナダ政府が岩崎事務所に委託したNWTに関する日本向け経済レポート作成のために用意してくれたものだった。岩崎事務所から三人、それに日本経済新聞の記者のH氏が加わってのグループ旅行で、私たち一行は、10日間の間オタワ政府の用意してくれたチャーター機で北極圏の各地を訪ねた。行く先々で鉱山・漁業関係の人、漁業関係の人、教育関係の人、そして、北西準州の中でもっとも特徴的であるアート産業の担い手であるイヌイットの彫刻家や版画家、工芸家達との会合とプレゼンテーションが用意されていた。押しかけかばん持ちで同行させてもらった私だったが、この旅で得た経験は、貴重で大きい。

最後は5人乗りの超小型機に乗り換えて、ボウフォート海を臨む極地まで行くことが出来た。最初の単独行の時ツリーライン(樹木の北限)を越えて氷雪に覆われた3千m級の山々を眼下にしてバフィン島へと飛行したが、この不毛としかいえない過酷な自然環境の更に先に人の住む村々が存在する。信じがたいことであったが、この切羽詰った場所にも人の住む場所が確かに備えられているのだという事、これは、日常の、人の英知や愛をはるかに超えた、万能の主からのおぼしめしであろうか?と、これといった確かな信仰心を持つ私ではないが、この極北の景色を機上から見下ろしたときには、不意に、涙が溢れてきて止まらなかった。

極地は、人に感動を与えてくれるところである。これは、ついに、こんな北の極地まできてしまったという私個人の感慨でもあった。ボウフォート海に向かって、一行が立ったとき、道中ずっと写真撮影で忙しかった経済記者のH氏もカメラを肩に掛けたまま佇み、涙を浮かべていたのが、印象に残っている。

●壁掛けの巡回展

ところで30年間集めた私のイヌイットの壁掛けは、以前から御縁のあった「暮らしの手帳」社から出版されることになりトロントから送った119枚の壁掛けは、2000年夏の猛暑のなか丸3ヶ月間掛けて撮影し、印刷技術では世界一といわれる大日本印刷によって一冊の画集として出来上がった。私は夏中編集部の一員として加わりカメラマンのS氏の助手を勤める傍ら、壁掛けに解説文を付ける作業に専念した。ここで、二度の北極行きの経験が役立ち、分かりやすく楽しい解説が出来たと思う。百聞は一見にしかずであった。

その後、イヌイットの壁掛けの発売に合わせて壁掛け展をしようということになり、初めてのお披露目を東京青山のカナダ大使館の美術展ですることになった。当時のカナダ駐日大使はレナード・J・エドワード氏であったが、氏はこの本を編集し始めた当初から、私の30年に及ぶコレクションをカナダの財産だと高く評価して下さり、自ら進んで書評など書いて下さっていたが、最初の展覧会場が、カナダ大使館になったのも大使の好意的なお取り計らいであった。

展覧会の前日のオープニングには、高円宮殿夫妻をメインゲストとしてカナダ大使館の館員、日本人のお客様が大勢招待された。私は両殿下のミュージアム・ツアーを仰せつかり、ご案内申し上げた。会場では、いろいろと御質問くださり、楽しいコメントもなさって、くつろいでいられた御様子だったが、その御様子には相手の気持ちを思いやる優しさと誠実な御性格が窺われて深く印象に残った。その後、間もなくして殿下は急死された。本当に惜しまれる方であった。

翌日からの一般公開は、大使館でのプレスリリースの効果でNHKはじめ民放各社、各新聞社からの取材が殺到して連日たくさんのお客がやって来てくれた。東京の青山通りに面しているカナダ大使館の建物は、急勾配のエスカレーターに乗って二階が正面玄関になっている。連日ぞろぞろとエスカレーターを上がって行く人の群れを見て、いつもは暇そうな(?)守衛さんの一人がいぶかって「一体上で何をやっているのですか?」と尋ねたくらいだった。

後ほどで広報文化の担当者から聞いたのだが、美術館、劇場、図書館を持ち一般公開しているため「開かれた大使館」として知られるカナダ大使館であるが、このイヌイットの壁掛け展は大使館始まって以来の大入り満員の盛況だったという。

だが、この盛況は私の手柄でもなんでもない。すべてに恵まれて準備されたことは確かだが、なんと言ってもこの人気は、イヌイットの女の人たちが丹精込めて一針一針作り上げた作品の持つ魅力そのものに尽きると思う。この後、日本各地何箇所か巡回したが、会場に残された沢山のアンケートに残されたコメントには、見ていて元気になる力を感じる、嬉しくなる、大きな気持ちになる、など作品を作った人たちの思いがそのまま伝わっている。嬉しいことである。

この大使館での展覧会を皮切りに、その後、東京で3箇所、大阪、仙台、札幌、小樽、網走と2000年から2004年までの5年間、巡回展をすることになった。いずれの会場でもカナダ大使館後援のロゴをいただいて格調高い展覧会となった。仙台では日加経済会議の開催中に併せて展覧会をしたが、主催者側の仙台の方々、特に東北電力の方たちには本当にお世話になった。

仙台は、森が多く、モダンさとどこかレトロっぽい雰囲気が混ざり合った美しい街で一度こんなところに住んでみたかった、と思ったほどであった。今回の東日本大震災で、当地も大きな痛手を受けている。お世話になった人たちは? あの美しい森の街は? と安否の電話が通じたのは震災から2週間も経ってからだった。

2002年には福島に行っている。福島美術館での展覧会の仕込みをするためだった。此処は今、原発問題で世界中の人々の不安と恐怖の的になっている。あそこに住む人たちはどうなるのだろう? 住み慣れた土地に我が家を残して、転々と避難所暮らしと報道されている。

私は書き出しにこれといって執着するところはない、と勇ましいことを言ったが、40年カナダに暮らした今になっても、日本を思う時、私の思いが確かに戻って行くところがある。それは不思議なことに、もう半世紀も前に少女時代の僅かな年月を過ごしたことのある東北地方なのである。いつでも、私の脳裏に浮かぶ景色は、穏やかな山々の重なり、律儀に耕された田畑、幾つもの入り江を挟んで寄り添う集落、夕餉の支度の煙が薄紫にたなびく夕暮れ時、踏み切りで手を振る学校帰りの子供たち、野焼きする煙の匂い、炊き立てのごはんの匂い、樽の匂いの混じった青菜漬けの青い匂いであり、黙々として、ひたむきに、しかし、したたかに生きる北の人たちの人懐こく、やさしい笑顔なのである。

●流氷の街へ

去年(2010年)9月、私の壁掛けの巡回展の最後の会場になった網走の北海道立北方民族博物館に行ってきた。最後の会場になったのは、2004年にここで展覧会をした翌年に、夫と父の死が重なり、まもなく私自身の発病、療養と予期せぬことが重なって、この先巡回展を続けていくことを断念せざるを得なかったからだった。幸いと博物館側の厚意で、燻蒸などもほどこしていただき大切に保管されていた。

カナダに送り返すか、私のガイドなしの展覧会をこの先も何かの方法で、日本で、続けていくか、いずれにしても30年間に亘って集めた壁掛けを、今更ばらばらにして手放したくない。私の所有するものではあるが、亡くなった岩崎の後ろ盾あってのものだ。また、カナダ大使のエドワード氏がカナダの財産といってくださった物でもある。軽はずみな目先の考えで自分勝手にするわけに行かないと決めかねていたところ、主任学芸員のSさんはじめ展覧会に携わってくれた学芸員の大きな後押しをもらって、嬉しいことに私の北極生まれの娘たちの嫁ぎ先が決まったのであった。

すなわち、北方民族博物館が、私の壁掛けの半分を占める北極の日常生活の様子を縫い取った壁掛け、民族学上、価値ある壁掛けを引き取ってくれることになったのだった。その壁掛けの仕分け作業の引継ぎもあって日本に行くと必ず、オホーツク海に面した流氷の街に行くのである。羽田から女満別まで飛行機で一時間と50分、女満別空港は北極圏の表玄関の空港に似た風情があって空気は北のにおいがする。空港にはかわいい黄色い車で勤続25年の学芸員のSさんが出迎えてくれる。彼女とは2003年の札幌展の会場であって以来のお付き合いだが、仕事振りは着実で早く、あたふたとすることがない。仕事場では私を立てて支えてくれる。

北極で出会った人たちと共通するが、皆大地にしっかり足が着いている。北極旅行に出かける直前に「ワーキング・ブーツで来て下さい」とのfaxが入ったが、彼らの足がしっかり地に付いて見えるのは靴のせいではない。余り無駄口を叩かない。黙々と行動する。自然で飾らない。厳しい自然を相手に生きているからだろうか? 北に暮らす人たちの特徴のようだ。Sさんは本当に北の大地に良く似合う美しい人である。

同博物館までの往路は飛行機だったが、帰路は列車の旅にした。「17時間もかかりますよ、網走からだと。東京までは札幌、函館、八戸と三回も乗り換えがあるし、時間にゆとりのない乗換駅もありますしね。それに運賃も空路でいくより、大分、お高くなりますよ」と、JTBの担当者は空路で帰ることを熱心に勧めてくれたが、その人の親切な助言に逆らって、私の長年の念願であった陸路で、車窓から初秋の田園風景をゆっくり眺めながら、東京に戻ったのだった。

網走から札幌まで約5時間、北大時代から北海道の山々に出会って以来、生涯を通じて山登りを趣味とした父を偲びながら、窓から北の山並みをちょっとセンチメンタルな思いで眺めた。札幌に数日滞在した後、予定通り函館と八戸を経由して東京に帰った。

いま、私の机の上に50枚の写真がある。去年の9月、北海道から東京に帰る列車からデジタルカメラで撮った、私の故郷の風景である。田畑や家々、川、入り江など海沿いの景色が一番多い。この風景が、人々の確かな日々の営みを育んできたこの風景が、たくさんの尊い命もろとも押し流されてしまうなどと誰が予想しただろうか。今やお悔やみの言葉も慰めの言葉もみつからない。が、私は北に暮らす人々の厳しい自然の中で培われてきた我慢強さと底力を信じる一人です。一日も早い復興を祈るものです。

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