リレー随筆

「食べられるもの」と「食べられないもの」

フリーランスライター 篠原ちえみ

「日本人は何でも食べるのね」と言われたことがある。彼女はユダヤ教徒だから、タコやエビ、カニ、豚肉などは絶対に食べない(ユダヤ教徒はコーシャーとされるもの以外は何があっても食べない。水のなかに住む生き物で、ヒレやうろこのあるもの、蹄がわかれ、反芻するものなど、食べてはいけないものがかなり細かく定められている)。そんな彼女にとって、「食べてはいけないとされるものがない」という文化は驚きだったようだ。

確かに宗教的制約のほとんどない現代の日本人にとって、「食べられるもの」と「食べられないもの」の境界線は曖昧である。私も小さいころから「きらいなもの」はあったけれど、「食べてはいけない」といわれたものはなかったように思う。鴨の肉も、馬の肉も鹿の肉だって食べた。なまこだって平気で食べていた。京都伏見稲荷のすずめの焼き鳥、さすがにあれだけはすずめ好きの私にはダメだったけれど・・・。

でも、最近、食べれないものが徐々に増えているような気がする。もちろん宗教的な理由からではないし、子ども時代のように「キライなもの」が増えているわけでもない。おそらく、概念的にだめになっているのだと思う。

まず、生の魚介類。「踊り食い」とか「活け作り」というのはもう絶対にだめ。新鮮な魚介類のおいしさは瀬戸内海で育った私には確実にわかるけれど、10年以上トロントで暮らすうちに、「生きたものを生きているうちに食べるなんて!」と言った友人のセンシティビティを私も抱くようになって、そういう食べ方が「残酷」と感じられるようになった。肉のなかでも豚は食べないでいたい。豚の丸焼きなんかやっているのを見ると、めまいを感じてしまう。これは確実に宗教的に豚を食べることを禁じられている友人たちの影響だと思う。フランス料理のジビエもだめ。牛肉や鶏肉を触るのも、できれば避けたい。そうこうしているうちに、最近はほとんどベジタリアンになっている。

こうした変化は年とともにゆっくり来たのだけれど、もとをたどれば、10年ほど前の経験にさかのぼることができると思う。

トロントに来た頃、チャイナタウンを歩いていた私の目の前に、止まっていたトラックがあった。そのトラックの後ろのドアが突然開いて、薄暗い空間にいくつもの動物が吊られているのを見たのだった。その光景といったら! ぼんやり暗いなかに、確かに動物の体が浮き上がって、その非日常性に圧倒された。動物といっても、あれは何だったのだろう? 牛のはずはないから、豚だったのかもしれない。また、別のとき、ケンジントン・マーケットのブッチャー・ショップで、ショーウィンドウにウサギが吊るされているのを見た。皮をはがれて赤い肉と化したウサギはとても寒そうに見えて、かわいそうでならなかった。このときの光景は今も脳裡に焼きついていて、シチューに入っているお肉をつつきながら、これがかつては動物の形だったのだ・・・との思いがどうしても消えないのだ。

思えば、トロントに来て以来、食肉産業の「裏の部分」を見る機会が増えている。豚やウサギがぶら下がっているショーウィンドウはもとより、スーパーの棚に置かれた骨付き肉や、デリで売っているハムのあの形に、私の想像力はもとの「生きていた動物」にまで広がっていくのだ。First Food Nationというノン・フィクションには、マクドナルドをはじめファーストフード業界と食肉産業との関係が描かれていて、牛や鶏がどのように飼育され、屠殺されるかをリアルに描いていて、読んだ私は悪夢にうなされた。キャンパスで配られていた動物愛護団体のパンフレットは、それを視覚化していた。また、誰もが映像を公表できるYoutubeの影響も大きい。フォアグラがどのように生産されるのかをYoutubeで見て、フォアグラはもうやめにしようと決めた(フォアグラは、必要以上に大量の餌を強制的に与えたガチョウや鴨の肥大化した胃で、世界3大珍味のひとつとして知られる)。

「食べる」ということは本来ひどく残酷なことなのだ。とりわけ肉を食べるためには、動物を「処理」するというプロセスが不可欠だ。しかし、「食べる人」と「屠殺する人」の距離が長くなればなるほど、その事実は都合よく忘れられてしまう(「屠殺する人」のなかには自分の処理するものは絶対に口にしなくなる人が多いと読んだことがある)。これだけ食糧が豊かな時代・地域に生きていて、牛や鯨を殺さなくては自分の口に入らないとしたら、多くの人がそこまでして肉を選ぶだろうか。

We are what we eat.という言葉がある。いろんな意味に取れる言葉だけれど、「食べるもの」と「食べないもの」の基準を持つようになると、この言葉の重みはぐんと増してくる。年とともに、私も先のユダヤ人の友人のように、自分のアイデンティティの一部と「何を食べるか」が重なるようなやり方で食事をとるようになっているのだと最近気がついた。

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